五王戦国志6 風旗篇 井上祐美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)琅《ろう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)謀士|耿淑夜《こうしゅくや》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から1字上げ]井上祐美子 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/06_000.jpg)入る] 〈カバー〉 〈琅《ろう》〉に敗れ流謫《るたく》の身となった元〈奎《けい》〉王、段大牙《だんたいが》のもとへ〈琅〉の謀士|耿淑夜《こうしゅくや》と国相|赫羅旋《かくらせん》が現れる 旧知の二人の説得に〈魁《かい》〉の末裔《まつえい》は遺臣を引き連れ〈琅〉軍に加わることを決意 ——対するは〈征〉目指すは巨鹿関《ころくかん》—— 中原の大地に蹄《ひづめ》の音が響く COMMENT 井上祐美子 Yumiko Inoue さて、第三部の開幕です。国の数もかなり整理がついたところで、人物の整理も着々と進んでおります。話が途中でふくらんだ分、大風呂敷をたたむ作業も力わざになってきそうですが、予定のラスト・シーンは目の前。この分なら大幅なコース・アウトはせずに済むといいつつ、ハプニングを起こしたがる作者です。 PROFILE 1958年11月生まれ。兵庫県姫路市出身。中国の歴史を素材にした小説で独自の世界を切りひらく。主著に「五王戦国志」(小社刊)、「桃妖記」「柳絮」 (徳間書店)、「長安異神伝」「桃花源奇譚」(トクマ・ノベルズ)、「女将軍伝」(徳間文庫)など。 カバーイラスト/小林智美 カバーデザイン/森 木の実(12 to 12) [#改ページ] [#挿絵(img/06_001.jpg)入る]  五王戦国志6 風旗篇 [#地から1字上げ]井上祐美子 [#地から1字上げ]中央公論社 [#地から1字上げ]C★NOVELS Fantasia [#地から1字上げ]挿画 小林智美   目  次   序  第一章 再起  第二章 密謀  第三章 覇道  第四章 風の中の旗   あとがき [#改ページ]  主な登場人物 耿淑夜《こうしゅくや》 [#ここから3字下げ] 一族の仇《かたき》である堂兄《どうけい》・無影の暗殺に失敗し逃亡中、羅旋にひろわれ〈奎《けい》〉軍に加わる。謀士《ぼうし》として〈衛《えい》〉〈征《せい》〉に対するが、義京《ぎきょう》の乱後、羅旋と袂《たもと》をわかち大牙とともに〈容《よう》〉に亡命。表向き下級の位に就きつつ、大牙を支え〈奎〉の再興を志したが、〈琅《ろう》〉に敗北。羅旋に乞われて〈琅〉の臣となる。 [#ここで字下げ終わり] 段大牙《だんたいが》 [#ここから3字下げ] 〈奎《けい》〉伯国の世嗣として〈魁《かい》〉王朝の秩序を守らんと挙兵。〈衛《えい》〉〈征《せい》〉と対峙中に王都|義京《ぎきょう》で大宰・子懐《しかい》が〈魁〉王を弑逆《しいぎゃく》したため敗走し、父と兄そして封国を失った。〈容〉に亡命後、北方諸国連合の王に推戴《すいたい》され〈奎〉の再興を志すが〈琅《ろう》〉と戦闘の末、敗れて西域に流罪となる。闊達果断な武人。 [#ここで字下げ終わり] 冀小狛《きしょうはく》 [#ここから3字下げ] 〈奎〉の老将軍。義京の乱後も大牙に仕えている。剛毅にして実直。 [#ここで字下げ終わり] 赫羅旋《かくらせん》 [#ここから3字下げ] 西方の戎《じゅう》族出身。元〈魁《かい》〉の戎華《じゅうか》将軍・赫延射《かくえんや》の子。豪放磊落で胆力にすぐれる。侠《きょう》の集団を率いて〈奎《けい》〉軍に加わったが、義京の乱で敗走、西方に逃れた。居を定めた辺境国〈琅《ろう》〉の内乱で藺如白を助け、その義子となる。 [#ここで字下げ終わり] 藺如白《りんじょはく》 [#ここから3字下げ] 西方の辺境国〈琅〉の国主。羅旋の助力を得て異母弟との政争に勝ち、小国の生き残りを賭けて国内の改革に着手。身分に拘らない人材登用で国力を増し、中原三大国のひとつとなる。 [#ここで字下げ終わり] 莫窮奇《ばくきゅうき》 [#ここから3字下げ] 通称・五叟《ごそう》先生。仙術を能《よ》くし学識に秀でているが、一面、傲慢で気まま。羅旋と行動をともにする。 [#ここで字下げ終わり] 耿無影《こうむえい》 [#ここから3字下げ] 淑夜の堂兄。主君を弑逆《しいぎゃく》、己の一族をも滅ぼして〈衛〉の公位を簒奪《さんだつ》した。性、狷介《けんかい》だが、怜悧な手腕で〈征〉に次ぐ南方の大国〈衛〉を能《よ》く治め、中原の制覇に野心を燃やす。義京の乱後、王を名乗る。 [#ここで字下げ終わり] |百 来《ひゃくらい》 [#ここから3字下げ] 〈衛〉の老将軍。無影の公位簒奪に反発が渦巻く中、逸速くその信を得て重臣となり、獲得した小国〈鄒《すう》〉を治める。 [#ここで字下げ終わり] 魚支吾《ぎょしご》 [#ここから3字下げ] 東方の大国〈征〉の主。壮年の美丈夫で辣腕《らつわん》の戦略家。中原の覇権に執念を燃やし、〈魁〉王朝の滅亡を仕掛けた。義京の乱後、〈魁〉と〈奎〉を版図に収め、王を名乗る。混乱に乗じて〈容〉をも奪い取り、中原の再統一まで最短の距離にあるが、世嗣は幼く、忍び寄る病魔に焦りを感じている。 [#ここで字下げ終わり] 漆離伯要《しつりはくよう》 [#ここから3字下げ] 礼学を修めた〈征〉の謀士。斟酌《しんしゃく》せぬ発言から廷臣たちに疎《うと》ましく思われているが、魚支吾の信あつく、新都建設を任されている。太子・佩《はい》の学問上の師でもある。 [#ここで字下げ終わり] 尤暁華《ゆうぎょうか》 [#ここから3字下げ] 中原屈指の富商・尤家の女当主。〈魁〉の王都義京で、女ながら大国を相手に商売をとりしきる一方、段大牙や赫羅旋らを背後から援助した。義京の乱で〈魁〉が滅亡してのち、無影と結び〈衛〉に拠点を移した。中原全土に交易網をめぐらす。 [#ここで字下げ終わり] 揺《よう》 珠《しゅ》 [#ここから3字下げ] 嬰児のころに〈魁〉の王太孫の妃となるが死別。義京の乱後〈琅〉に移る。兄である前〈琅〉公|孟琥《もうこ》も病死、血縁は叔父如白のみとなる。 [#ここで字下げ終わり] 苳《とう》 児《じ》 [#ここから3字下げ] 段大牙の兄士羽の忘れ形見。〈琅〉公のもとに預けられている。聡い子で、未来を予言する不思議な力を持つ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#挿絵(img/06_006.png)入る]  五王戦国志6 風旗篇      序  北方の〈奎《けい》〉が瓦解《がかい》し、その領土が〈征《せい》〉と〈琅《ろう》〉に二分された後、あいまいな国境線と双方の残りの土地をめぐって、二国が激突するのは必然だった。  大義名分は、公平に見て〈奎〉の段大牙《だんたいが》を手中にし、なおかつ助命した〈琅〉の方にあったといってよい。〈容《よう》〉を除く各国の国主や将軍たちも、先年の戦で生き残った者たちは〈琅〉に迎えられ、協力を申し出る者は猶予《ゆうよ》期間をおいて、徐々に〈琅〉国内に地位と働く場を与えられていった。むろん、拒み続けて軟禁状態に置かれる者たちもいるにはいたが、いったん西方へ流された段大牙が、丁重《ていちょう》に迎えとられたことが彼らの心情をやわらげたことは事実だった。 〈琅〉にしてみれば、懐柔《かいじゅう》策をとってでも、彼らを自国内にとりこむ必要があった。もともと、〈征〉にくらべれば絶対的に人口が足りないのだ。それに加えて、為政者《いせいしゃ》としてはともかく、勇将としては名声の高かった段大牙を手駒《てごま》のひとつとして使えれば、戦力の面だけをとっても、大きな利益になることはまちがいなかった。  一方、〈征〉には、なんとはないうしろめたさがつきまとっていた。〈琅〉と戦をしている〈奎〉の背後を襲い、混乱にまぎれて〈容〉一国を奪いとったのだ。国の内外を問わず、これを正当に得た国だと、だれも思わないことは明らかだった。しかも、国境の望津《ぼうしん》の戦で大きな被害を出しながら、手にしたのは〈容〉一国のみ。実質、利を得た者はほとんどないありさまだった。  それに対する不満、不信が国内になかったわけではない。ただ、魚支吾《ぎょしご》の強力な統率力と気迫とが、噴出することを押さえていた。逆にいえば、正当な諫言《かんげん》をもともに封じこんでいたともいえる。  ただ、魚支吾が健康で、この先、すくなくとも十年、〈征〉に君臨し続けていたら、この点は史書に、一行か二行、記されて済まされただろう。歴史とは結局、勝者のものなのだ。  先年の誤謬《ごびゅう》は、とりかえしのつかない事態ではなかった。〈琅〉を攻め、旧〈奎〉領すべてを手に入れてしまえば、十分に糊塗《こと》できることだ。うまくして〈琅〉まで滅ぼせれば——悪くしても、伸びてくる兆《きざ》しのある国力を削《そ》ぐことができれば、〈征〉の中原での優位は決定的なものとなり、統一は近くなる。  魚支吾の意志の力と、〈征〉の国力があれば、それは決して不可能ではなかったし、実現していれば、当面は安定した国が出現していただろう。ただし、それが魚支吾の次の代にまで及んだかどうかは、疑問だが。 〈衛《えい》〉の耿無影《こうむえい》はといえば、この間、ほとんど静観《せいかん》のかまえをとっている。〈衛〉は〈魁《かい》〉滅亡の年以来、大きな軍事行動はほとんど起こしていない。威嚇《いかく》のための出兵はしているのだが、実戦にまで至っていなかったのだ。よって、国力はこの時点で、実質、もっとも充実していたかもしれない。  ただ、問題は耿無影が目指した国内改革が、この頃から頭打ちの兆しを見せはじめていたことだった。旧来の卿大夫《けいたいふ》の妨害を排除し、人材登用の道を開いた耿無影だが、一点、失念していたことがある。  人材とは、招けば即、現れてくるものではなく、大勢を、幼い頃から教育、指導し、育てていくべきものだという点である。耿無影は高等教育の場は設置したが、庶民の地位をもっと引き上げ、教育することには不熱心だった。知らなかったといってもよい。彼自身が、ほとんど独力で広範な学問を身につけただけに、他人も同様だと思っていたのだろう。  短期間で思うようにあがってこない成果に、彼はいらだち、この頃からなかば、投げ出しかけていたようだ。  有能な側近がついて、補佐していればまだ、望みはあったかもしれない。だが、耿無影は生来、我慢強い方ではなかったし、国主の座に就《つ》いて以来、何度か執《と》ってきた強硬策がここで裏目に出てきた。本人は、やがて〈衛〉を合議制に移行させようという構想をもっていたふしもあるが、結果としては彼の独裁色を強めるようになってしまった。同時に、彼ひとりにかかる重圧も、さらに増していったのだった。 〈奎〉が滅び、三国となった直後、これで各国間の均衡がとれると思った者もいた。しかし、結局その平和は、一年しか保《も》たなかったのだ。 [#改ページ]  第一章————————再起      (一)  渇いた風は、土埃《つちぼこり》とともにかすかな草の芽吹きの匂いをふくんでいた。  ゆるやかにうねる、何もない黄色い地平線を眺めながら、大地の匂いだな、と、淑夜《しゅくや》は思った。  西への旅は、さまざまな匂いの経験でもあった。東方の人間にしては馬の匂いにも扱いにも慣れている淑夜だったが、羊や野生の獣や、わずかな緑地やそこから湧《わ》き出る水——生命そのものといってよい生々しいものに初めて触れたような気にさせられた。  その旅も、ようやく終わりに近づいている。  今、視線の先にあるなだらかな丘陵《きゅうりょう》をひとつ越えたところに、ちいさな泉があり放牧地がある。そこに、目指す人物がいるはずだと聞いてきた。 「ようやくですね」  惚《ほう》けたように地平線を見ている淑夜の耳もとで、明るい声がした。自分の乗馬の首を軽く、いたわるようにたたいてやりながら、青年がこちらを見て笑っていた。 「徐夫余《じょふよ》」 「どうかしましたか? 私の顔に何かついていますか。それとも、お疲れですか、淑夜さま?」 「いや、そういうわけじゃ」  淑夜は苦笑しながら答えた。徐夫余の口早な口調から、自分がどんな風に彼の目に映っていたかを察したのだ。頼りなさそうに見えたのだろう。でなければ、ここからでも引きかえしかねないとでも思われたのだろうか。  実際、これからどんな顔をすればいいのか、迷ってはいる。だが、泉の辺に居るという人に会うのに、今さらためらいはなかった。 「行くぞ」  低い不機嫌な声を背後からかけてきたのは、あきらかに戎《じゅう》族とわかる鋭い顔立ちをもった若者だった。名を左車《さしゃ》という。戎族の中の一部族・蒼嶺部《そうれいぶ》の長である。彼もまた、従者の少年をひとり従えただけで、淑夜が応えるよりはやく、つい、と馬を進ませた。淑夜も徐夫余も、慣れた仕草で手綱《たづな》をさばき、彼に従った。  四人とも、軽装だった。  荷物といえば、各自、鞍の後ろにくくりつけた包みがひとつずつ。これで十日以上もの行程をいけるのかと、淑夜も最初は疑った。  だが、 「草原では、水さえあれば十分だ。ほかに要《い》るものは、草原がめぐんでくれる」  出発前に左車がいったとおり、四人はこうして無事に目的地にたどりついた。  春先の乾季で、雨の心配の必要がなかったことも大きい。夜の冷え込みは、焚火《たきび》と馬のぬくもりでしのいだ。食料は、草原に住む小さな兎《うさぎ》などでまかなった。ちなみに、獲物を調達《ちょうたつ》してくるのはもっぱら左車と徐夫余、食事の支度《したく》は従者の少年で、淑夜はほとんど役に立たなかったのだが。  四頭の馬は、なだらかな丘陵の稜線《りょうせん》を競うように越えた。地平の向こうに開けたのは、浅く大きな窪地《くぼち》だった。周囲の草は茶色に乾ききっていたが、窪地のもっとも低いあたりはほんのりと緑に染まっているのが、上からでも認められた。緑の中にゆっくりと動く黒いものは、この周辺で放牧されている馬。それよりも大きく白い十ほどの点は、群れを所有している一族の天幕《てんまく》だった。 「止まれ」  天幕を見てさらに馬の脚を急がせようとした淑夜を、左車の声がさえぎった。淑夜の乗馬である騅《あしげ》は、淑夜の手綱よりその声に従った。徐夫余は、その動きを見てまた馬を止める。 「——どうしたんです」 「見ろ」  といわれても、すぐには何のことだか淑夜にはわからなかった。口数の少ない左車が指で示した方向から、こちらへむかって来る馬があるのを認めたのは、馬上の人間の服の色が判別できてからである。  服の色は、紅だった。さらに、騎《の》り手が女だと知ったのは、顔がかろうじて見えるほどの距離に近付いてきてからだ。そこで、女は馬を止めた。両者の間には、まだ相当な距離があり、声をはりあげなければ会話はできなかった。 「そこに来るのは、だれ?」  応えたのは、左車である。 「蒼嶺部の左車」 「隣にいるのは」 「〈琅《ろう》〉の耿《こう》淑夜、それに徐夫余」  少年は、成人ではないので名乗りをあげる必要はない。 「迎えに出てきたのは、誰だ」  と、今度は左車が問う番だった。 「当邏《とうら》の娘の玻理《はり》」  戎族の部は、いくつかの血族の集団から成っている。蒼嶺部は、若い左車が長を継いだ時に族長たちが離反し、弱小勢力に転落した。とはいえ、何家族かは蒼嶺部の中にとどまっている。当邏はそういった族長のひとりの名で、この放牧地ともう一か所を代々の根拠地とし、遊牧をくりかえしていた。  実をいえば、左車は当然、当邏がここにいることも、彼の家族の構成も熟知している。当然、迎えに出てきた女の名も先刻承知だったし、部の長の顔を一族の者が知らないはずはない。すぐにも歓迎がはじまってもよさそうなものだが、まわりくどいやりとりは戎族の慣習だった。  玻理と名乗った女はさらに、 「客人は何をお望みか」  細く編んだ黒髪を揺すりながら問うた。  こういう場合、 「水を」  と応じるのが戎族のあいさつなのだが、左車は少し首をかしげながら、こう答えた。 「人に会いにきた。いや、迎えにきた」 「——迎え」  淑夜たちの視線の先で、女がはっと背後をふりかえるのが見えた。 「ここに、元〈奎《けい》〉の王・段大牙《だんたいが》どのがいるはずだな。大牙どのに、会いたいというご仁《じん》がおいでになった。玻理、案内を」 「よう——」  天幕の入口の布をはねあげて入ってきた男の顔を見た一瞬、淑夜は声が出せなかった。背後で息を呑《の》む音が聞こえたところをみると、徐夫余も同様だったらしい。敷物にどかりと腰をおろし、ふたりの顔を見比べてから、彼は、 「どうした」  軽く、目もとだけで笑った。  正確にいえば、目もとだけが見えたというべきだろうか。男の顔の半分は、髭《ひげ》におおわれていた。髪も伸び放題にのばし、首のうしろで軽く束ねただけだから、見えるのは鼻から額にかけての部分だけ。その部分も、強い草原の陽に灼《や》かれて赤銅色《しゃくどういろ》に染まっていた。 [#挿絵(img/06_017.png)入る]  いかにも健康そうな色だった。目尻に深く笑いじわまで刻まれていて、男は幸福そのものに見えた。とてもではないが、これが戦に敗れて国を失い、西の果てに流罪《るざい》になっている王だとは見えなかった。座った拍子に、革の匂いがつんとした。 「どうした、淑夜。俺の顔に何かついているか。それとも、俺を見忘れたか」  矢継《やつ》ぎ早《ばや》にたずねられて、 「見まちがえるところでした」  ようやく、淑夜は声を出すきっかけをつかんだ。ずいぶん間のぬけた声だと、自分でも思ったが、案の定、相手は大声をあげて笑いだした。  明るい、一点のくもりも悩みもない声だった。 「お元気そうで——よかった」  淑夜はそういうのがやっとだったが、大牙の方はいっこうに屈託《くったく》がない。 「なに、俺が失意のあまり、病気になっているとでも思っていたか。おおかた、羅旋《らせん》の奴の想像、いや、願望だろう。見てのとおりだ。帰ったら、残念だったといってやれ。とにかく、よくこんなところまで来てくれた、淑夜。それから——徐夫余といったな」 「お久しゅうございます」  長身の徐夫余が、上体を深く折り両手をついて平伏した。  大牙の目元にすこしとまどいの色が浮かび、すぐに納得の笑みになった。 「そうだった、久しぶりだったな」  徐夫余はもともと、〈奎〉の農夫だった。徴用されて兵卒《へいそつ》となっている時に、〈奎〉が滅亡し、西の〈琅〉国に仕えることとなった。ここ数年、常に〈琅〉の精鋭部隊の中にその姿があると報告されていたので、大牙はすっかり、彼の出自《しゅつじ》を失念していたらしい。  実をいえば、淑夜もこの旅に彼が同行を申し出てくるまで、忘れていた。それほど、徐夫余は〈琅〉の暮らしぶりや組織に馴染《なじ》んでいたのだ。 「一年ぶりか、淑夜。元気なようで、なによりだ。苳児《とうじ》にはかわりないか」 「はい」  淑夜の回答に、逡巡《しゅんじゅん》がないことまでたしかめて、大牙はうなずいた。 「奴は元気か。それから、揺珠《ようしゅ》どのは」 「皆、無事ですよ」 「ほんとうに、よく来てくれた。ここは、いいところだが、退屈でな。馬を走らせるか、酒を飲むことぐらいしか楽しみがない。その酒も馬乳酒で——いや、味は悪くないんだが、匂いがな。そうだ、玻理——玻理!」  わざわざ立ち上がり、外にむかって呼び立てた。 「大牙さま、私たちは——」 「遠慮するな。遠来《えんらい》の客人には、まず、酒を供《きょう》するのがここの風習だ。主人の酒を飲まないのは、敵対するという意味になる。だから、無理にでも飲ませるぞ。玻理!」  淑夜の位置からは、入口の布の隙間《すきま》からしか外が見えない。その細い隙から紅い色と日焼けした手がのぞいて、大牙の手の中に革袋をおしつけた。そのまま、ふた言み言、低くことばをかわしたかと思うと、ふいと立ち去ってしまった。 「——杯は、このあたりにあったはずだ」  大牙は、天幕の隅にある箱の中をかきまわすと、小さな錫《すず》製の碗《わん》を三つとりだした。 〈奎〉伯国の嗣子《しし》として生まれ、限られた範囲ではあったが「王」として人の上にたったこともある大牙である。身の回りの世話をする他人は、余るほどいた。酒を汲むために自ら杯を捜し、目の前に並べて革袋から白濁した酒を注ぐなど、当時の彼なら考えられなかったろう。  だが、現在の大牙にはみじめさなど微塵《みじん》も感じられなかった。むしろ、嬉嬉《きき》として酒を注ぎ、杯を取り上げる。 「さ、飲め」  戎族の慣習は、淑夜たちもある程度、知っている。だが、自分たちは戎族ではないし、遠慮したのか左車もこの場をはずしているのだから、その慣習に従う必要はない。ないはずだが、大牙の表情を見ていると反論するのは無駄なような気がして、淑夜も冷たい杯を手にとった。徐夫余も、真似をする。  目の高さに掲げて、一気に飲み干す。独特の獣臭《けものくさ》さのある強い酒が、喉の奥を灼《や》いた。  思わずむせかえりそうになるのを我慢して、杯を干した証拠に逆さにすると、大牙は目で笑いながら二杯目の酒を自分の杯に注いでいるところだった。 「少し待ってください、大牙さま」 「なんだ、酒ならまだあるぞ。それとも、もう酔っぱらったか」 「いいえ、この程度ではまだ、酔いませんよ」 「では、飲め。客人は久々だ。おおっぴらに酒が飲める機会は、そう多くはない。しかも、客が飲まぬのに飲むわけにいかない。だから、つきあえ」 「用件が済んだら、つきあってさしあげますよ。ですが、酔ってしまう前に、お話ししたいことがあるんです」 「——用件なら、わかっている」  杯に口をつけながら、大牙は上目がちに淑夜をねめつけた。まだ酔っているわけではないだろうに、目がすわっている。 「約束の一年だ。俺の暮らしぶりを見て、報告するために来たのだろう。好きなだけ見ていくがいい。ついでに、段大牙は戎族の風俗になじんで、西に居着いてしまいそうだといってやるといい。よろこぶ奴が、何人かいるだろう」  大牙を王として推戴《すいたい》した〈奎〉は、一年前、〈琅〉に戦を仕掛けて敗れ去った。小国のゆるやかな連合体だった〈奎〉が、公国とはいえ軍備増強をはかっていた〈琅〉に勝つのは至難の業《わざ》だったはずだ。その上に、この隙をみすまして、東から〈征《せい》〉が侵攻を開始した。背後を衝《つ》かれ、まず国主たちが動揺し脱落し、大牙は戦に敗れて捕虜《ほりょ》となった。  本来なら、戦の最大の責任者である大牙を助命することなど、考えられないことだった。その処遇《しょぐう》については、議論もあった。下手に生かしておいて、復興をたくらむ連中の旗頭《はたがしら》に擁立されては面倒だ。  だが、〈琅〉は基本的に、降伏した者は殺さないという国是《こくぜ》を掲げていた。慈悲心からではない。西の新興国で人口の絶対数が少ない〈琅〉にとっては、人は財産であり、捕虜はいずれ自国の兵にできる大切な資源だったからだ。  さらに大牙は、〈琅〉の国主の義子であり騎馬兵の長でもある赫羅旋《かくらせん》の、古い友人でもあった。大牙が〈奎〉伯国の嗣子《しし》だったころには、羅旋は大牙に雇われて戦ったこともある。  むろん、戦に私情をはさむわけではないが、羅旋は大牙の将としての才を高く評価していた。また、大牙の部下として従っていた耿淑夜を、以前から、自分の謀士《ぼうし》として欲しがっていた。大牙の助命は、耿淑夜を〈琅〉に引き取るための、妥協策でもあったのだ。  かつて中原に君臨した〈魁《かい》〉宗室の血もひく段大牙は、こうして助命され、〈琅〉よりさらに西の草原に流謫《るたく》の身となった。正確にいえば、草原の民・戎族の一部族にその身を預けられたのだ。  草原で、ひとりになって考えてみろ、というのが、赫羅旋のことばだった。厳しい草原の生活に、名家の公子がどこまで耐えられるか、生き延びられるか、ためしてみろという羅旋の挑戦でもあった。  そして、一年。  段大牙は立派に、草原の生活に耐え抜いてみせた。耐えるどころか、十分、楽しんでいるようにさえ見えた。たしかに、これは多くの人間の思惑外だったろう。大牙が挑《いど》むような口調になったのも、それを十分意識していたためだ。  だが、淑夜はしずかに首を横にふった。 「私は、ただ、ようすを見るためだけに、こんな遠くまで来たわけではありませんよ」 「では、なんだ。俺と酒を飲みに来たわけではなさそうだな」 「ええ」 「もったいぶるな。とっとと吐け」 「大牙さまに、もどってきていただきたいのです」 「——もどる?」 「東へ。〈琅〉へ、来ていただけますか」 「俺に、〈琅〉の臣になれと?」 「はい」 「それは——容易なことではないぞ。いや」  大牙は、淑夜が口をひらきかけるのを手真似でさえぎった。その手もまた日焼けし、ごつごつとたくましくなっているのを、淑夜は認めた。名家の公子だが、同時に一個の武人としての才もあり、剣をとって戦わせても十分な技量を持っていた大牙である。それなりの体格はもっていたはずだが、今の彼の手は以前よりがっしりと力強くなっていた。 「俺のことはたいした問題ではない。抵抗がないといえば虚言《うそ》になるし、〈琅〉公の人柄も、よくは知らぬが——一度死んだと思えばよいことだ。俺はかまわない、俺はな。だが、他の事情が許すのか。〈奎〉王が〈琅〉公に臣従《しんじゅう》するのだぞ、他のだれか——〈征〉あたりの、かっこうの口実になりはしないか。それに、俺を下手《へた》に東に呼び戻したりすれば、妙な連中の蠢動《しゅんどう》を誘いはしないか」 「はねつける自信がありませんか?」  淑夜のせりふに、からかうような口吻《こうふん》が混じった。とたんに、 「莫迦《ばか》をいえ。陰謀に利用され、巻きこまれてせっかく助かった命を落とすのは、まっぴらだというんだ」 「その点なら、羅旋が何があっても信用する、責任なら自分がとる、といっています。だから、是《ぜ》が非《ひ》でも大牙さまに戻ってきてほしい。手伝ってくれ、とのことでした」  大牙の太い眉が、きゅっと中央に寄せられた。 「何があった——いや、何を起こそうとしている」 「今、お話しするところですよ。まず、〈琅〉公・藺如白《りんじょはく》さまが、王として即位されました」 「ほう——いつのことだ」 「一月前」 「ようやく、実をとる気になったか。で、原因は? 〈征〉の魚支吾《ぎょしご》か、それとも〈衛《えい》〉の耿無影《こうむえい》のせいか」  うかがうような大牙の視線の先で、淑夜は予想していたような微笑をうかべた。 「——無影は、今のところ、動きを見せていません。〈征〉は、かつての〈容〉伯国を手中にし、さらに西への足がかりを築いたところで、兵の主力を引いてしまいました。魚支吾が、どうやら病で動きがとれなかったらしく——」 「それぐらいは、耳にしている。ここも、それほど田舎ではないのでな」 「実際、助かりました。あのまま〈征〉が西へ動きを続けていたら、〈琅〉では支えきれませんでしたから——」 「すっかり〈琅〉の臣の口調だな」  と、大牙が揶揄《やゆ》したが、 「あの時〈琅〉が敗れていたら、あなたも私も、無事ではすまなかったはずですよ」  すました顔で、淑夜は切りかえした。  もちろん、敗れて〈琅〉に下った淑夜が、一朝一夕《いっちょういっせき》に〈琅〉の臣となれたわけではない。淑夜の心情にも複雑なものはあったし、〈琅〉に降伏者を受けいれる体制があるといっても、翌日から権限を与えるような真似はしない。だいいち、戦で傷ついた淑夜自身の身体が完全に復調する必要があった。  仕事に耐えられるようになるまで、三か月かかった。赫羅旋の配下に入ることは、最初から決まっていたようなものだが、しばらくは無役のまま、羅旋のかたわらで発言権もないまま見習いのような立場に置かれた。羅旋の配下の軍の謀士、という立場と献策する場を確保したのは、つい三月前のことだ。  ただ、そうやってゆっくりと、自分に割り振られ期待された役割を考え、それに慣れる時間を与えられたことは、決して無駄ではなかったとも思う。現に、こうして〈琅〉の一員としての発言が、抵抗なく口をついて出るようになった。  大牙も、そのあたりの事情を言外に感じ取ったのだろう。 「まったくだ。それで?」  あっさりと非を認めて、先をうながした。 「とにかく、〈琅〉公が〈琅〉王となられました。それに従って、〈琅〉国内の機構も整備され、羅旋は正式に〈琅〉の国相のひとりとなりました」 「——ついに腹を決めたか」  大牙の眼が、光った。  赫羅旋はいままで、〈琅〉国主・藺如白の義子という身分で〈琅〉国内にとどまっていた。いってみれば、縁故によって優遇《ゆうぐう》されていたわけで、明確な地位や身分を保証されてはいなかった。逆にいえば、これは羅旋の恣意《しい》でいつでも解消できる関係で、羅旋から望んでとどまっていた境遇でもある。それがようやく、〈琅〉国の最高位のひとつに就いたのだ。それなりの覚悟をしたものとは、大牙でなくとも推測がつく。  ちなみに、〈琅〉という国はこれまで、主だった臣たちの合議制で| 政 《まつりごと》をおこなってきた。国主の継承もまた、一族と臣の中で有力な者たちの間での話し合いの結果で決まってきている。その形を踏襲し、〈琅〉では宰相《さいしょう》職を複数おくことになった。羅旋は、五人いる国相のひとりだという。 「それにしても、宰相として責任をとる決心が奴にもできたわけだ。けっこうなことではないか」  どこまで本気かわからないような、のんびりした大牙の口調に、 「それがそうでもないんです」  負けず劣らずとぼけた口調で、淑夜はきりかえした。 「〈琅〉公が王に即位されたことに関して、〈征〉の方から使者がきました。口上はいろいろありましたが、要するに抗議です」 「——それは、当然だろうなあ」 〈征〉の魚支吾は、滅んだ〈魁〉王家の縁続きとして、正当な後継者を名乗り、中原を統一する大義を掲げている。実際は、外戚ではあっても彼自身は〈魁〉王家の血はひいていないのだが、魚支吾にとって重要なことは、事実関係ではなく、人がどう信じるかということだったから、これは問題にはならなかった。  問題は、誰から見てもまちがいなく〈魁〉王家の血を引く者が、他に存在していたことだ。大牙の実家の段家は、遠縁だが〈魁〉王家の傍流だったし、先代の〈琅〉公・藺孟琥《りんもうこ》は〈魁〉の最後の王・衷王《ちゅうおう》の姪《めい》の子だったから、まちがいなく〈魁〉の後継者を名乗る資格があった。  先代〈琅〉公が没し〈奎〉の段大牙が敗れ去って、魚支吾にとって障害物はなくなったかに見えていたはずだ。そこへもってきての〈琅〉の王号は、計算外以外のなにものでもない。当然、容認できるものではなく、即位を難詰《なんきつ》する文面がさっそくに送られてきた。  もちろん、〈琅〉にとってはすべて予想のうちだった。王号の根拠が弱いのは、〈征〉も南方の〈衛〉も同様で、〈征〉にとやかく言われるいわれはない。抗議されたところで、つっぱねればよいことだ。それで、なにか相手が行動を起こしてくるならば、逆に相手の非を唱《とな》えて迎え討てばよい——。  覚悟の上の挑発行為である。〈琅〉は、基本としては戦は望んでいない。ただ、 「いずれ〈征〉とは、一戦しなければならないのです。この一年の間、〈征〉の侵攻を想定して、〈琅〉は準備を整えてきました」  淑夜のことばに、大牙もうなずいた。 〈奎〉が西の〈琅〉と戦っていた時、〈征〉はその後背をついて、隣接していた〈容〉に雪崩《なだ》れこんだ。〈奎〉が滅んだあと、〈征〉はそのまま〈容〉に居座って、我が物にしてしまっている。下世話《げせわ》なことばでいえば、火事場泥棒と大差ないことをしてのけたわけだ。  一方、〈奎〉と戦って勝利した〈琅〉は、〈奎〉の版図《はんと》の西半分をわが物としている。〈征〉と〈琅〉の間にあった小国群が消えた——つまり、緩衝材《かんしょうざい》がなくなった結果、両者の間にあらたな国境線を引く必要にせまられたのだ。  この機会に、できるだけ多くの領土を確保したいと思うのは当然のこと。特に〈征〉は、できれば〈琅〉まで一気に版図に入れて、中原での優位を決定的にしたがっている。〈琅〉にしてみれば、いずれ〈征〉が理由を作って攻めてくるのは目に見えていた。それならば、先に仕掛けて戦の主導権をとる方がよくはないか——それが〈琅〉の国主、藺如白と、五人の国相の一致した意見だったのだ。  ちなみに、〈琅〉は、手中にした土地を、いきなり直接に支配するようなことはせず、旧臣たちの間から信頼できる者を選び出し、その者に統治の代行をさせる形をとった。それも、きっと〈征〉の魚支吾の目には与《くみ》しやすしと見えているだろう。 「あれは、おまえの発案だろう」  と、大牙は訊ねた。 「聞いてすぐにわかった。おまえらしい。羅旋が、おまえを謀士にほしがったのも道理だ」 「私ではありませんよ。羊角《ようかく》将軍や廉亜武《れんあぶ》将軍、国相がたの合議の結果ですよ」 「その前に、諮問《しもん》があっただろうが」 「それは、内々の話として意見はいいましたけれどね。私だけじゃありません。五叟《ごそう》先生も壮棄才《そうきさい》どのも、です」 「どうやら、〈琅〉には人材がそろってきたようだな」 「ええ、だから、その人材の中に、大牙さまも加わっていただきたいのです」 「——どうして、話がそっちへ行くんだ」 「大牙さまでなければつとまらない事態が出来たからですよ」 「——今さら、俺になにができるという」 「〈奎〉の遺臣をまとめて、率いることはできるでしょう」 「なに?」 「冀小狛《きしょうはく》将軍をはじめ、〈奎〉の遺臣で〈琅〉の配下にはいった方たちは大勢います。皆、大牙さまの助命をありがたいといい、〈琅〉の臣になることを承知されていますが、たとえばすぐに、羅旋や羊角将軍の命令に従うには抵抗があるはずです」 「つまり、連中と羅旋の間に俺を填《は》め込もうというわけか」  同じ羅旋からの命令でも、それが羅旋自身の口から聞くか大牙の口から出るかでは、冀小狛たちの反発もちがってくるはずだ。大牙ひとりの覚悟によっては、大牙が彼らをなだめ説得することも可能だ。もっとも、そのためには大牙自身が、〈琅〉に絶対に逆らわないことが前提条件となる。つまり、大牙に絶対の忠誠を、〈琅〉は要求していることになる。 「わかりが早くてたすかります」  淑夜は、大牙の渋面《じゅうめん》を承知でにこりと笑った。 「しかし、なあ」  大牙は怒りはしなかったが、いい顔はしなかった。 「羅旋の奴は、本気でいっているのか。それは、おまえはもともと奴《やつ》に拾われたようなものだから、いまさら下につくのにも抵抗はないだろうが、俺にも自尊心や自負心のかけらぐらい、残っているんだぞ。俺に冀小狛らをまかせて、〈琅〉に反旗を翻《ひるがえ》さないという保証ができるのか。俺はともかく、冀将軍ら全員にそれを期待するのは無理だ。連中が全員、忠誠を誓ったところで——」 「離反《りはん》の疑いをかけられるような陰謀を仕掛けられれば、〈琅〉は内部から崩壊させられますね」 「そこまで、わかっているのか」 「わかりますよ。それぐらい」 「だったら、わざわざもめ事の種を抱えこむことはなかろう。そもそも、俺を無用の危険にさらす気か。俺が〈奎〉の遺臣どもとつるんで、〈琅〉に離反をたくらんでいる——。そんな噂ひとつあれば、事実も証拠も必要ない。俺も冀小狛たちも殺される」 「羅旋が殺させはしませんよ」 「おまえが、保証できるのか」 「できません」  簡単に否定されて、大牙は返すことばもない。太い眉根を寄せて、今にも怒鳴《どな》り出しそうな顔つきになった。実際に怒鳴らなかったのは、何をいえばよいのか、とっさにことばがみつからなかったからにすぎない。だが、大牙の形相《ぎょうそう》を見て腰がひけたのは、背後に控えてじっとことの推移を聞いていた徐夫余の方で、淑夜は平然としていた。すくなくとも、外見はそう見えた。 「大牙さま。選択の余地はあまりないのですよ。ここで一生朽ち果てるか、〈琅〉で働くか」 「俺は——一生、ここで暮らしてもいいと思っていた」 「そのようですね」  すこし困ったように、淑夜は肩をすくめた。 「正直にいって、こんなにここの暮らしに馴染《なじ》んでおいでだとは、思っていませんでした」 「ここは、いい。馬にさえ乗れれば、どこへ行くのも勝手。いつ、何をしようと、うるさくいう者もいない。生きていくために、最小限、必要なことをするだけだ。誰の目も、気にしなくていい。これほど気楽で、のびのびとした暮らしがあるとは思っていなかった」 「羅旋と、似たようなことをいいますね」 「俺は羅旋と似ているのさ。羅旋が暮らせた土地なら、俺にも生きていけるんだろう」 「だったら、〈琅〉でも、立派に将として相として、働けるのではありませんか」 「おまえ——口が達者《たっしゃ》になったな」 「おかげさまで」  淑夜はまた笑った。  よく笑うようになったなと、大牙は頭の隅で感じた。きっと、屈託《くったく》が少なくなったためだろうと推測はついた。大牙の配下としての淑夜は、まず身分が不安定だった。代々の〈奎〉の臣たちに遠慮し、不要な猜疑《さいぎ》をうけないよう、できるだけ目立たないことを第一に考えてきた。その上で、〈奎〉の再興を画策し、〈征〉を牽制《けんせい》し〈衛〉との密約を成立させ——人以上の働きをしてきたのだ。〈奎〉という、本来は小国の寄り集まりでしかない国は、大牙と淑夜の意志と頭脳だけで成立していたといっても過言《かごん》ではない。不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵《きゅうてき》である〈衛〉の耿無影と、有形無形の対決を強いられた、心の負担も大きかっただろう。  実体のない〈奎〉という国を形あるものとするために、淑夜は耿無影と妥協をはからざるを得なかった。激しい憎悪はもうない、と淑夜自身はいうが、それでも簡単に手を結べる相手ではなかったはずだ。  だが、〈琅〉の臣のひとりとなった現在、淑夜に負わされた責任は格段に軽減《けいげん》されている。しかも、いったん降伏した者を、それ以前から仕えていた者と区別、差別をしない〈琅〉の慣習も、淑夜たちによい方に作用している。才能|次第《しだい》でいくらでも重用される〈琅〉では、淑夜が頭角をあらわすのにさほど時間はかかるまい。まして、淑夜を麾下《きか》に収めたのは、彼の能力を熟知している赫羅旋である。 〈琅〉の国の方針がすでに決まっていることも、淑夜の負担を楽にしている。無理に耿無影と手を結ぶ必要は、もうない。倒すべき敵手《てき》として、真正面から立ち向かえばいいのだ。しかも、今のところの敵は〈征〉だ。 (こいつも、ようやく、仕える時と処と人を得たわけか)  一年前より、苦労知らずに見えるようになった淑夜の顔を眺めて、大牙は肩で嘆息《たんそく》した。その嘆息を、淑夜は別の意味に解釈した。 「むろん、これは大牙さまの意志次第です。ですが、一度は死んだ身だと思えば、羅旋に生死を預けることもできるのではありませんか。すくなくとも、さっきご自身でそういわれたではありませんか」 「一度、死んだ——か」 「ちなみに、私は二度死んだ身です。二度とも、羅旋に救われました。ならば、羅旋のために二度ばかり死ぬ思いをさせられても、文句はいえないわけです」 「一度、助命されたから、奴のために死ぬ義務があるというのか」 「いえ、ですが——」 「奴が、命を預けられるだけの価値のある男だと思うか」 「それは——大牙さま自身の判断です。私の事情と大牙さまの意見とは、違っていて当然です。強制はするなと、羅旋からもいわれてきています」 「——考えさせてくれ」  ついに、大牙は口にした。逃げ口上《こうじょう》だなと、淑夜も徐夫余も、大牙自身も思ったが、 「よろしいでしょう」  淑夜はあっさりとうなずいた。 「でも、あまり時間はありません。〈容〉の旧領に、食料が集められているとの報告をうけてきました。〈征〉がいつ、動き出すかわからないので、明日、東へ戻ります」 「明日?」  髯《ひげ》の中から、大牙の眼だけがはねあがった。 「それでも、安邑《あんゆう》に帰りつくまでに、どんなに急いでも五日はかかります」 「そんなに切迫《せっぱく》しているのか」 「魚支吾の出方が、読めないんですよ」  ここではじめて、淑夜は困ったような声を出した。大牙が徐夫余の方をうかがうと、この青年も同様の表情をしてかすかにうなずいていた。  不思議といえば不思議な光景だった。一年前まで敵味方に分かれていた彼らが、何の違和感もなく疑問も持たず味方同士となり、同じ命令を受けて行動している。まるで、最初からこうなるのが決まっていたかのようだ。 「一年前から、ずっと病床《びょうしょう》についているという噂もあります。戦の準備を整えているところを見ると、起きられないほどではないはずだという説もありますが——私には、焦っているようにも思えます」  淑夜は、この時だけは大牙から視線をはずしてつぶやいた。 「とにかく、大牙さまの去就《きょしゅう》がどう決まろうと、私たちは明日の朝、ここを発《た》ちます。決心がつかない場合は、通行証や他に必要なものを残していきます。もしも、〈琅〉に仕えたくない——他の国へ行きたいと思うなら、好きにすればいいとの、羅旋からの伝言でした」  淑夜が告げて、その話は打ち切りとなった。ちょうど天幕の外から、食事の用意ができたという左車の声が聞こえた。そろそろ、草原に夕暮れが忍び寄ろうとしていた。      (二)  その夜のことだった。  星明かりをたよりに、天幕の外へ出た大牙《たいが》は、人の気配を感じて一瞬、全身を緊張させた。それがゆるんだのは、 「大牙さま」  すぐに、徐夫余《じょふよ》の明るく底意のない声が聞こえてきたからだ。 「——おまえか。どうした、眠れんのか」 「大牙さまこそ」 「食い過ぎた」  遠来の客人への作法どおり、羊が一頭つぶされた。この放牧地に暮らすのは、族長の当鑼《とうら》とその一族、縁戚《えんせき》、子供もふくめて十数人ほどだ。一頭分の肉は、十分すぎるほどの量があった。羊の肉は独特の臭みがあるのだが、大牙は慣れた手つきで肉を捌《さば》き、酒とともにさかんに口に運んでいたから、食べ過ぎたというのは事実である。胃の腑《ふ》にもたれて眠れず、腹ごなしのために天幕の外へ出てきたのだろう。  ただ、食事中の大牙は、必要以上に食べることに熱心だった——戎《じゅう》族の生活に馴染みきっている様を誇示しているようにも、見えないでもなかった。  理由のひとつは、すぐにわかった。  最初、淑夜《しゅくや》たちを出迎えた玻理《はり》と名乗った戎族の娘である。  戎族の中でもとりわけ無口だが、美女の部類には入るだろう。切れ長の目と高い頬骨《ほおぼね》、日に焼けているが敏捷《びんしょう》そうな長い手足は、肌理《きめ》がなめらかでいかにも健康そうだった。その戎族の美女が、大牙のそばを片時も離れず食事の世話をし、休む時は同じ天幕へひきとっていったのだ。そういうことにうとい徐夫余でも、さすがにふたりの関係は理解できた。それを淑夜に告げると、 「あいさつの時の反応で、それとなくわかっていたよ」  今ごろ気がついたのかと、微笑で応《こた》えたもので、徐夫余はさらに驚いたものだ。女の影どころか、浮いた話のひとつも聞いたことのない淑夜が、男女の機微《きび》に通じているとは思えなかったからだ。 「大牙さまにしては、軽率《けいそつ》なことをなさったのではありませんか」 「何故《なぜ》?」  訊きかえされて、みたび徐夫余は驚いた。 「何故といって——元とはいえ、〈奎《けい》〉の王が戎族の娘を妻に迎えるわけには」  徐夫余に悪意はない。戎族に対しても、とりたてて見下すつもりはない。ただこれが、ふつうの人間がこの状況を知って抱く、正直な感想であり反応だろう。大牙は、流謫《るたく》中とはいえ、〈魁《かい》〉王家の血をひく公子という身分には何のかわりもない。身分も地位もない異民族の女が、正妻はむろんのこと、側室として認められるかどうかもあやしいものだ。だが、 「今の大牙さまは、なんの身分も地位もないのだから、かまわないだろう。父親の当鑼も承認しているようだし」  淑夜は平然と、受け流した。ある程度、こんな事態を予測していたふしも見受けられた。夜中になって、「星を見てくる」といって天幕を抜け出していったのも、別に他意のあることではなさそうだった。 「淑夜が、出ていった?」  徐夫余に告げられて、大牙は眉《まゆ》をひそめた。むろん、徐夫余はその前の経緯は伏せている。ただ、大牙の言い訳に調子を合わせて、 「淑夜さまも、きっと慣れない食物が腹にもたれたのでしょう。出ていかれたまま、なかなかもどってきません」  言っただけだったが、 「どれほど前の話だ」  大牙は、真剣な表情で尋ねた。 「半刻(一時間)ほど前でしょうか」 「腹ごなしにしては、ゆっくりすぎるな」 「実は、そう思ったので捜しに行こうかと」 「今夜は星明かりで明るいが、草原は同じような地形が続き、方向も距離も見誤りやすい。しかも、あいつの脚だ」  馬に乗る程度なら問題はなく、ほとんど目立たなくなっているが、淑夜は左脚をわずかにひきずっている。怪我をした時には、二度と満足に動くまいといわれた脚だが、東奔西走、戦にも出、戦場を馬で駆けまわったせいだろうか、日常の生活には支障がないまで、驚異的な回復を遂げていた。  とはいっても、動きに無理があるのは確かだ。徐夫余や大牙のように自在には動かないし、左脚の耐久力も弱い。万が一、迷ったら、左脚が命とりになりかねないことも事実だ。 「いくらあいつでも、ひとりで出ていって迷ったら、明日、東へ戻るどころの話ではなくなるぞ」  そう言うと、 「玻理、支度を」  天幕の中へ怒鳴った。天幕の入口から顔をのぞかせた女は、切れ長の眼でちらりと大牙の長身を見上げると、なにも聞かずにいったん姿を消し、すぐに大牙の剣を持って現れた。それを受けとって幅広の革の帯につけると、大牙は足早に歩きだす。徐夫余もあわてて後を追った。玻理も無言のまま、足音もたてずについてくる。 「そんなに遠くへは、行っていないはずです。ここまで左車《さしゃ》どのと一緒に旅をしてきたんです。危険は十分承知しています」 「わからんぞ」  いい捨てた口調が、信用していないのではなく、ただその身が心配なのだと言外《げんがい》に語っていた。  草原とひと口にいうが、草の丈《たけ》によって様相はかなり異なってくる。人の腰ぐらいまである叢《くさむら》は稀で、せいぜいが膝《ひざ》より上ほどの高さに生い茂り、そのまま冬には茶色く枯れる。今は、その枯草の下から若い緑の葉が伸び上がってくる時期だ。夜気にかすかに甘い香りがするのは、草が穀物一粒ほどの大きさの花をつけはじめているせいだ。  そういえば——と、徐夫余は走りながら、脈絡なく思い出していた。どこまでも続く草原地方の風景を見て、ここまでの旅の途中で淑夜がいった。  ここでは、人は強くならざるを得ない、と。  淑夜や徐夫余が生まれ育った中原は、地形は起伏に富み樹木も豊かに育っている。人も多く、大きな城市《まち》もある。野山にしろ人の中にしろ、追われて身を隠すところは、いくらでもある。だが、草原では逃げる場所がない。絶対安全な場所も、一時、避難するところもない。結局、敵に向き直って戦うのが、生き残る最良の手段なのだ。  それを口にした時の淑夜の脳裏《のうり》に、だれが想定されていたかは、徐夫余にはわからない。ただ、今、目の前を早足に、闇《やみ》の中へ平気で分け入っていく大牙を見ていると、なるほどと思えたのだった。  そうやって、気負って最後は走るようにして駆け上がったゆるやかな斜面の頂上で、しかし、 「なんだ——」  大牙は気の抜けた声を思わずあげた。  尾根のようにゆるやかにうねっていく斜面の先に、星明かりの夜空を背景に、黒々とした影がうずくまっているのが見えたからだ。 「淑夜——」  心配をさせるなと大声で怒鳴りつけようとして、大牙はあやういところで声を呑《の》んだ。徐夫余が息を切らせて駆け上がってきて、 「え?」  と、とまどった声をあげた。  淑夜は、ひとりではなかったのだ。淑夜とおぼしい影の隣に、ひとまわり大きな影がむっくりと起き上がるところだった。その黒い影の、顔に相当するあたりに、ふたつの光点を認めて大牙は、 「まさか」  つぶやいた。同時に徐夫余が何か言ったのも、同じ意味だろう。さらに、玻理が戎族のことばで何事かつぶやくと、くるりと踵《きびす》をかえして天幕の方へもどっていった。  それは目だった。  獣《けもの》のように底光りする、緑色の双眸《そうぼう》を持つ者は、この草原にも中原にも多くはない。夜光眼と呼ばれ、草原の民の間では忌避されるらしいその眼は、夜でも夜行性の獣と同様に視力があるという。大牙たちの知っている人間の中で、そんな眼を持つ者は、ひとりしかいなかった。 「何故——なんで、おまえがこんなところにいるんだ。赫羅旋《かくらせん》」 「よく、俺だとわかったな」  影は、意外に陽気な声をあげながら、立ち上がるところだった。かたわらの、小柄な影がそれに並ぶのが見えた。 「ほんとうに——頭領《とうりょう》ですか」  徐夫余が疑り深そうに確認した。 「化かされてるんじゃないでしょうね、淑夜さま」 「本物のようだよ。少なくとも、話しているかぎりは」  淑夜の、おちついた声が闇の中から戻ってきた。その声がゆっくりと近づいてくる。まもなく、星明かりで姿形が判別できる距離まで、両者の間は詰まった。 「たしかに、羅旋だ」  大牙がうめくようにつぶやいた。 「この野郎——いったい、なんだって。いや、だいたい、おまえら、ここで何をしている。落ちあってふたりで、何を密談している。来たのなら、なんでとっとと当鑼にあいさつをしない。草原の民の作法を、忘れたわけではあるまい。そもそも、淑夜らを使者によこしておいて、おまえがなんでわざわざ、こんなところまでやってくる必要がある。〈征〉との情勢が逼迫《ひっぱく》しているはずじゃなかったのか。それとも、〈琅〉の国相というのは、それほど暇なのか——」  頭に湧き出した疑問を、一挙にならべたてようとする大牙にむかって、 「質問は、ひとつずつにしろ」  冷水を浴びせるような制止の声が飛んだ。なにを——と、かっとなった大牙だが、頭の片隅から、 (変わらない)  安堵《あんど》のようなものが湧き出すのを、押さえることができなかった。そうやって制止したくせに、 「——要するに、早くに着きすぎたんだ」  大牙の質問の順序を無視して、答えはじめるところも変わっていない。 「淑夜たちを出発させてから数日後に、俺も行くべきじゃないかと思いたったんでな。それで、月芽《げつが》を急がせたら、こんな時刻に着いてしまった。いくらなんでも、夜中におまえたちを叩き起こすわけにはいかないから、すこし離れたところで野宿をするつもりでいたら、この莫迦《ばか》が——」  と、どうやら淑夜を指さしたらしい。 「この暗いのにのこのこ出てきて、俺につまずきやがった」  大牙の背中で、徐夫余がふっと噴き出すのがわかった。 「それは、もう謝ったじゃないですか。天ばかり見ていたせいです。それに、こんな広いところで、つまずくようなものがあるとは、思ってもみなかったんですよ」 「なにがあるか、わからないのが世の中だ」 「そんなことをいって、〈琅〉の安邑《あんゆう》で、私たちの首尾を待っているといった人が、ここまでわざわざ来るとは誰も思いませんよ。ここにいる方が悪いんです」 「そうだ。なんだって、おまえがここにいる」  もう少し、距離が詰まっていれば、相手の襟首《えりくび》をつかんでゆすぶりかねないいきおいで、大牙が再度、疑問をぶつけた。 「だから、来るべきだと思ったから来ただけだ」 「淑夜では、俺を説得できないと思ったわけか。おい、淑夜、こいつはおまえを役たたずだといっているようなものだぞ。こんな奴の手下《てした》になれと、俺にいう気か」  大牙の非難が淑夜に向かった。状況が読めない苛立《いらだ》ちが、そうさせたのだろう。淑夜も落ち着いたもので、 「ちがいますよ」  声が苦笑している。 「最後まで、羅旋の話を聞いてください。羅旋が人をないがしろにしたことが、今までにありましたか」 「ないといえるか」  大牙は反論したが、あっさりと無視された。 「説得だけなら、俺が来るより誰より、淑夜が適任だろうさ。そう思ったから、ふたりに左車をつけて発《た》たせたんだ。だが、考えてみろ。人に仕えてくれと頼むのに、頼んだ本人が遠くでふんぞりかえっていて話になるか。俺なら、頭では納得できても腹でそっぽをむいてしまう。おまえだって、そうだろう。そう思ったら、これはひとつ、俺が頭を下げに行くのが一番だと思ったのさ」 「——俺に、頭を下げに来た? わざわざ安邑から? ひとりで?」 「不満か」  緑色の光点が、おもしろそうに瞬《またた》いた。表情がよく見えない分、声に感情がはっきりとあらわれていた。  もちろん、それ自体には不満はない。たしかに、大牙が望んでいたことだ。意地や面子《めんつ》の問題ではない。〈琅〉のために働くためには、将来、どんな事態になろうと大牙とその配下の身を保全するという誓約は、どうしても必要だった。淑夜に要求したのもその点だったのだが、彼が責任を負う立場にないことも、保証を口にできる状態でないことも承知の上だった。  大牙に万が一の事態が起きた時、大牙を庇《かば》えるだけの力を持つのも、〈琅〉という国に対して責任を取れる価値を持つのも、赫羅旋というこの漢《おとこ》、ただひとりだけだったのだ。 「しかし——淑夜の話では、いつ〈征〉と戦を始めてもおかしくないほど、事態は切迫しているというではないか。それで、よく安邑を離れられたな」 「戦の支度は、十分に整えてきたからな。俺抜きでいつ進発してもいいよう、段取りはつけてきた」 「というと?」 「俺が任されているのは、騎馬軍だぞ。出発が二、三日遅れたところで、戦には間に合うさ。たとえば今日、出発したとして、どちらがどう急いでも、実際の戦が始まるまでには、十日以上かかるだろう——」  そこまで話したところで、大牙の背後から斜面をかけ上ってくる足音が聞こえた。複数の足音は、玻理とその父親の当鑼の姿となって現れた。玻理は、松明《たいまつ》を掲げている。  草原には、木は生えない。人は暖《だん》をとるのに、家畜の糞を乾かして燃やしている。灯火は、獣脂を灯皿で燃やすが、遠くまで持ち運ぶのに不便なのが難である。樹脂を含んだ松明は、東との交易で手に入れる貴重な携帯用の灯火だった。  当鑼が松明をここで使ったのは、これが緊急事態だと認識したからだろう。 「——羅旋か」 「久しぶりだな」  松明の明かりの中に、長身の漢の姿が浮かび上がった。軽装だが、それなりに上等の装備を整えている。髪は無造作に束ねているが、鬚《ひげ》は鼻下だけを残してきれいに剃ってあった。  歴戦の武人らしい風格と、国政の端に加わるだけの端正さが匂いたつような、凜々《りり》しさである。かつて〈魁〉の義京で商人の荷の護衛役をしていた時のような、無礼無頼《ぶれいぶらい》は影をひそめていた。といっても、繊弱な印象はどこにもない。あの、物に拘泥《こうでい》しないおおまかさ、おおらかさはそのままに、威厳のような迫力だけが加わって、大牙ですら思わず、目を見張った。  それを知ってか知らずか、 「言いたいことはわかっている、当鑼。とにかく、夜が明けるまでは野営地には入らんから、燃料を少しよこしてくれ」  羅旋は、軽い口調で告げた。まるで、数日前に会ったばかりの人間にいうような、親しげな口調だった。 「夜が明けても、天幕には入れるわけにいかんかもしれんぞ」  当鑼は真っ黒に日焼けした頭に、まばらな白髪を残した六十年配の男である。顔に深く刻まれたしわで、そのぐらいの年齢だと思われるのだが、実際は四十歳を少し出たばかりだと聞いて、最初、大牙も驚いたものだ。過酷な草原の暮らしのために、戎族は男も女も、壮年の半ばから急激に老いこんでしまうのだ。だが、外見は老いていても、その眼光は人を射抜くかと思うほど鋭かった。 「掟《おきて》を忘れたわけではなかろう。延射《えんや》もおぬしも、もはや戎族ではない」 「わかっているさ。俺は、大牙と話をしにきただけだ。話が終われば、淑夜といっしょに東へ帰る」  いいながら羅旋は、紅い服を着た戎族の娘が、父親の袖《そで》のあたりをぎゅっとつかんだことを見逃してはいなかった。 「よけいなおせっかいかもしれんがな。無理には連れてはいかんが、もしも大牙が行くといった時の覚悟を、そちらもつけておいてくれると、ありがたい」 「おい、羅旋」  大牙が抗議の声をあげ、紅い服の玻理の顔が、さらに紅くなった。 「ほんとうに、よけいなおせっかいじゃ。わしらのことに、口をはさまんでもらおう」  毒づいて背をむけた当鑼に、 「ついでだ。酒と、なにか食い物をくれ。代価は払う」 「いらん。旅の人間をもてなすのは、戎族の習慣じゃ」 「だから、払うのさ。俺は戎族にとって、決して歓迎できる旅人じゃないからな」 「自覚があるのは、よいことじゃ。玻理、行くぞ」  ふんと鼻先でせせら笑うと、当鑼は松明を大牙の手に押しつけ、暗闇の中を天幕の方向に正確にまっすぐ歩いていった。玻理が、大牙の方をうかがいながらも、父親の後に続く。 「何故、天幕に入らない」  大牙が奇妙な顔をしたのも、当然だった。厳しい草原で暮らすためには、互いに助けあわなければならない。たとえ仇敵《きゅうてき》でも、救いを求めてきた者には、望む物を与えるのが戎族の不文律《ふぶんりつ》だった。すくなくとも、大牙はそう教えられ、保護を与えられて一年を過ごしてきた。まして羅旋は生粋《きっすい》の戎族で、しかも部の長の子である。部は違っていても、もう少し丁重《ていちょう》に扱われてもいいはずだ。  だが、 (そういえば——)  羅旋の父親が、草原を離れ〈魁〉に降ったには、なにやら人にいえない事情があると、匂わされたことがある。それを口にした尤暁華《ゆうぎょうか》は、羅旋に不利になるようなことはいわない婦人だった。そして、詳しい事情は絶対に話そうとしなかったところをみると、戎族にとって赫羅旋という存在は、禁忌《きんき》の一種であるらしかった。  東で事が進展しているうちは、問題にはならなかったし、大牙たちも気にしなかった。だが、目の前でこうはっきりと拒絶されてみると、好奇心がわいてくる。当鑼が、天幕には入るなといいながら、正面きって敵対するような素振《そぶ》りは見せていない。少なくとも、立ち去れとはいわなかったし、すぐに左車が要求したものを持ってやってくるのがわかった。  だいいち、大牙を預かったのは、左車を仲介に立ててはいるが、羅旋の依頼である。どうなっているのだという疑問は、当然のことで、淑夜も釈然としない表情は見せていた。  その顔たちにむかって、 「約束だからな」  羅旋は、簡単に告げた。 「約束?」 「それとも、罰というべきかな。俺はその昔、顔向けのできないことをやってのけた。その罰として、他の人間の天幕には入らせないという誓約をたてた」 「入らせない——ということは、おまえが誓ったわけじゃないんだな」 「ああ、親父がな」 「——羅旋」  左車が、うずたかく積んだ燃料に松明の火を近付けながら、低く呼んだ。制止したらしいが、羅旋は軽く首をふって、 「かまわん、この連中にはな」  くすぶりはじめた焚火《たきび》のそばに、最初に腰を降ろすと、やはり左車が肩にかけてきた革袋に手を伸ばした。中身が馬乳酒なのは、見なくてもわかる。それに直接口をつけて、ひと口あおると、羅旋は隣に座った淑夜に渡した。淑夜は、なんのためらいもなく同じように酒をふくむと、今度は徐夫余に渡す。  徐夫余がどうしましょうという風に遠慮するところを、大牙が横から奪いとり、三口ばかり飲んで、口の端を腕でぬぐった。どこか、自棄《やけ》気味な仕草だった。 「赫延射将軍が西にいた頃というと、俺もおまえもまだ孩子《こども》だな」 「ああ、親父は孩子の俺にかわって誓った。その上で、草原の暮らしに見切りをつけて、東に行ったのさ」 「なにがあった——と、訊いてもいいか」  大牙の低い声に対して、 「話す気で来た」  羅旋は、あっさりと応える。表情も明るく、左車の困惑した顔とは対照的だ。 「何故だ」 「いずれ、知れることだ。〈琅〉が東へ向かって行動を起こすなら、戎族との関係を良くしておかなけりゃならん」  淑夜が、燃え上がった火の陰でかすかにうなずいた。 「それ自体は難しいことじゃない。だが、物や人が頻繁に行き交うようになれば、俺のこともいずれは知れる。下手に他人の手で暴かれるよりは、周囲の人間には知っておいてもらう方がいいだろう」 「それほど、とんでもないことなら——」 「東の規範からいえば、あまり問題にはならんことさ。だいいち、中原の人間に同じ芸当はできんからな」 「ひょっとして」  大牙も頭の回転は早い。 「その眼にかかわることか」  焚火の光を反射して、なおも緑色に底光りする獣のような両眼をさすように訊ねると、めずらしく羅旋は視線を伏せた。眼光を隠すような仕草だった。 「夜光眼は、戎族の中でも百年に数人、生まれるだけだ。夜でも昼間と同様に見える便利なものだが——人の眼じゃない」  片手をゆるやかにあげて額のあたりに持ってきたために、その瞬間、彼の眼に浮かんだ表情は捉えられなかった。 「夜光眼の持ち主は災厄を運んでくると、戎族ではいう。人の中に、野生の獣を飼っておくわけにはいかない。だから、生まれた子は嬰児《えいじ》のうちに殺されることが多い——」 「そんな!」  と声をあげたのは、徐夫余の素直な顔。大牙はかすかに眉をひそめ、淑夜はさりげないしぐさで顔をそむけた。淑夜とたいして年齢のかわらない左車が、暗い表情で燃料を火にくべた。 「だが、おまえは殺されなかった」 「仮にも部の長のあととりだったからな。正確にいえば、次の長のひとり息子だった。だから、殺すわけにはいかなかった。長だった祖父が、敵対する部にだまし討ちにされたのは、俺が十かそこらの時だ」  後を継いだ羅旋の父・赫延射も、もちろん仇《かたき》は討つつもりだった。だが、その前に継承のための手続きがいくつもあった。  戎族は基本的に末子相続制である。成長した子供から独立していくために、最後に手元に残った子が親の財産を引き継ぐことになるのだが、絶対に末子が相続すると決まっているわけではない。族長や部の長など、責任のある立場の場合、親族が集まって相談の上、適任者を選ぶ。  赫延射の場合も、形式的なものだったが会議が開かれ、終わった後には何度も祝宴が開かれた。 「だが、そんな悠長なことをしている場合じゃなかった。祖父といっしょに、一族の主だった者はみんな、殺されていた。女たちはさらわれていたし、半減——滅亡寸前だった。実際、祝宴の最中に攻められてみろ、壊滅《かいめつ》していたぞ」  そして、羅旋は単身、敵の野営地に忍びこむ。月もなく星明かりもまばらな夜は、さすがの戎族でも動きがとれない。夜陰にまぎれて、羅旋は敵の族長の首級《しるし》をあげ、主だった者も数人は倒したという。  だが、仇を討って戻ってきた羅旋を待っていたのは、父親の激しい叱責《しっせき》だった。  仇は、正々堂々と正面から戦を挑んで討つべきで、夜にまぎれて相手を倒すのは、罪人か獣のようなやり方だというのだ。羅旋の祖父も、似たような手口で——招かれた祝宴の席で殺されたのだが、同様に卑怯《ひきょう》な真似をしてよいということにはならないと、赫延射はいった。  もともと、〈魁〉と良好な関係を保っていた赫延射である。中原の思想や慣習、美学といってもよいものに、強く影響されていたふしはあった。 「汚染されていた、といってもいい。いや、中原のやり方が悪いというんじゃない。ただ、生半可《なまはんか》な耽溺《たんでき》の仕方をしていたのさ、親父は」  羅旋の口調が淡々としているだけに、大牙たちはあいづちのうちようがない。羅旋も、周囲の沈黙には頓着せずに、話を進めた。 「やはり、獣の眼を持つ奴は獣だと、親父は俺を責めた。俺を殺して、賠償《ばいしょう》のかわりにすると息まいた。殺されなかったのは、古老たちが仇との間に立ってくれたからだ。賠償というなら、最初にしかけた方からも同様の賠償を払わせなければならないはずだ、とな。結局、俺は罰として、他人の天幕に入ってはならないといい渡された。皆にそう誓ってしまったと、親父にいわれた。俺は親父の家を離れても、獣のように野宿するしかなくなった——」  では、自分の天幕があればいい、という問題ではない。天幕に迎えられないということは、遊牧の暮らしをする上で、他人の助力を得られないということにも等しい。羅旋は、草原ではひとりで生きていくしかなくなったのだ。 「その俺を連れて、親父は〈魁〉に投降した。誓いはしたものの、親の情として俺をひとりで放り出す気になれなかったんだろう。どうせ、一族の数も激減していた。下手に草原で全滅を待つより、〈魁〉の保護下に入った方がいいとも思ったんだ。結果は——」  戎族の長の投降は、〈魁〉王を喜ばせた。戎華《じゅうか》将軍の称号と地位で迎えられた赫延射だが、戎族を見下す風潮がそれで変わったわけではなかった。それに気づかない赫延射ではなかったから、敵を熟知する者として〈魁〉と戎族との戦に投入された時、必要以上に奮戦し、戦果をあげることに懸命になった。  それが結果として、戎族からの敵視を激しいものとし、〈魁〉の内部からは警戒されることになったのは皮肉だった。  また、赫延射は〈魁〉の朝廷で当時、絶大な力を持っていた太宰子懐《たいさいしかい》に逆らった。王の権限をもっと強いものにするべきだ、臣下が君主を凌《しの》ぐ力を持っている現状は正しくないと主張してまわったのだ。  たしかにそれは正論だったが、現実に即していない机上の空論でもあった。武力を持ち、自分を堂々と非難してくる赫延射を許しておくほど、太宰子懐は寛容ではなかったし、一将軍をかばいとおせるだけの力を〈魁〉王は持っていなかった。 「つまり、〈魁〉の政に深入りしすぎたのさ。国のなんたるかも知らないくせにな。ただ、命令にしたがうだけの戎族の武人に徹していればよかったものを、中原の人間になろうと焦ったのさ」  赫延射は、ある日、毒の入った酒を口にして死んだ。毒を仕掛けさせたのが太宰子懐であることは、ほぼまちがいなかったし、〈魁〉王——最後の衷王《ちゅうおう》がそれを黙認させられていたこともたしかだろう。  父親に反発して家を出ていた羅旋は、そのまま行方をくらました。下手をすれば、羅旋も殺されかねなかったからだ。父親の仇をとりたいと思わない息子がいるとは、だれも思わないだろう。  羅旋も、恨みを抱かなかったわけではない。機会があれば——と、考えたこともあったが、祖父の仇を討ち急いだ過去が、彼をためらわせた。 「俺がもう少し慎重だったら——少なくともひとりで暴走しなかったら、親父は東へ来ることもなかっただろう。とすると、親父は俺が殺したようなものだとも思った」 「——それは、違うと思います」  不意に、淑夜が頭をあげてそういった。大きくはなかったが、彼にはめずらしく張った声だった。  淑夜には、今の話は他人事《ひとごと》ではなかったのだ。彼は堂兄《どうけい》の耿無影《こうむえい》に一族を殺され、仇をとろうとして失敗した時に羅旋と知りあっている。彼を谷底からひろいあげ、保護した時に羅旋がなんといったか、淑夜ははっきりと覚えている。  人をひとり殺せば、それですべてが終わるのか。耿無影を殺すことによって、何が起きるか考えてみろ——。〈衛《えい》〉の混乱、ひいては不安定だった当時の中原全体の騒擾《そうじょう》を引き起こすといわれて、淑夜は自分が成そうとしていたことをふりかえった。  一時の激情、個人の恩讐《おんしゅう》に目がくらんでいた淑夜を冷静に、そして高い見地から物が見られる人間にひっぱりあげてくれたのは、この赫羅旋だった。  当時は疑問も不信も抱いたこともあるが、これでようやく得心がいった、と淑夜は思った。当時の淑夜は、それよりも何年か前の羅旋自身だったのだ。だからこそ救いあげ、大商人の尤《ゆう》家に預けて保護を与え、〈魁〉の衷王に非公式ながら、引き会わせることまでした。何故ここまで——と思ったことは、すべて羅旋自身がくぐりぬけてきた悩みであり、それを解決していくための模索《もさく》だったのだろう。とすれば——。 「あなたのせいじゃありません。少なくとも、自身もふくめて、だれかを責めるような真似はあなたらしくない」 「——心配するな。昔、ふとそう思ったこともあるという話だ」  羅旋の苦笑が、焚火の炎に弾けた。 「太宰子懐を許す気はなかったが、その前に、俺がひとりで生きていく方法の方が大事だった。それよりももっと必要だったのは、戎族の俺が中原で何ができるか、意味と目的が必要だった。生きていく分については、尤家の助力が得られた。世の中を変えてみたいと思ったのは、尤家の仕事で各国を回っているうちにだった。親父を殺したのは太宰子懐だが、奴が手をださなくても、いずれだれかに殺されただろう。たとえば、〈征〉の魚支吾《ぎょしご》——」  その場の全員が、視線や仕草《しぐさ》で同意した。 「士羽《しう》兄者だって、事と次第によってはどうしたか——」  ぽつりと、大牙がつぶやいた。〈魁〉が滅んだ時、義京《ぎきょう》の戦で命を落とした段《だん》士羽——大牙の兄は、おっとりとした外見と辛辣《しんらつ》な知恵者としての内面を持っていた。段家は〈魁〉の宗室《そうしつ》につながる名家であり、赫延射の言動は、宗室を守るものとして歓迎すべきもののはずだ。だが、時代の趨勢《すうせい》に逆らい、太宰子懐や権力者をむやみに刺激することを、段士羽が歓迎したとは思えないと、大牙はいうのだ。 「だとすれば、権力の在処《ありか》が奇妙にねじれている、この状態を正すのが、親父の仇討ちだと思うようになった。ただ、力を〈魁〉王に戻してやっただけでは、同じことだ。百年もたてば、また太宰子懐や魚支吾のような奴が出て、王から権力を取り上げる。そして、正論を吐いた奴を殺す。やるなら、やれるものなら、太宰子懐のような奴が出ない国を、新しく作るしかない——そう、はっきりと考えたのは、実は太宰子懐を殺してからの話だったがな」  その瞬間、ちらりと大牙が淑夜の方へ視線を向けたのを、羅旋は見逃さなかった。 「なんだ?」 「——いや、以前、淑夜がいったことと似ているなと思ったのさ」 「なんといった?」  いった本人が、少し肩をすくめて、 「偉そうなことをいったものだと思いますが——滅んだ〈魁〉と同じ国をもう一度作っても、数十年後にはまた、同様に滅びると。なにか、新しい国の形が必要だと、切実に思いました。でも、その時は私には、具体的にどうすればよいかわかりませんでしたが」  淑夜の回答に、羅旋の緑色の眼が光った。 「いつの話だ」 「大牙さまが〈奎〉王になった頃ですよ。いいわけではありませんが、大牙さまの置かれた立場や〈容〉や〈貂《ちょう》〉の国主方の存在を考えると、どんな構想にしろ実行は不可能でした。あの〈奎〉という国の中で、〈魁〉という国の復活を望んでいないのは、大牙さまと私だけでしたから」  淑夜の苦笑は、羅旋の表情よりずっとおだやかだった。〈奎〉という国を作り変えていくという構想は、完全に破れたが、新しい国の形を作るという夢は断たれたわけではない。むしろ、〈琅〉に新しい働き場を得て、わずかだが実現に近付いている。その余裕だろうと、大牙は推測した。 「淑夜——」 「はい、大牙さま」 「〈琅〉なら、新しい国が作れるか」 「〈琅〉は、若い国です。国という形すら、完全には整っていない。〈琅〉公——いえ、王も、その臣下も、異質なものや変化を素直に受け入れる——むしろ、歓迎してくれます。少なくとも、国主の意向ひとつに国の動向がかかってしまう〈征〉や〈衛〉よりは、私のような者の働き場所はあると思います」 「おまえはそれでいいだろうさ」 「大牙さまの場所も、あるんですが」  拗《す》ねたような大牙の口調に、淑夜はまた微苦笑を浮かべる。大牙の逡巡《しゅんじゅん》が、おおまかながら理解できるだけに、淑夜は強く決断を迫ることができない。その淑夜の心遣いがわかるだけに、また大牙は結論が出しにくかった。一瞬、弾けた焚火の炎に全員が気をとられ、沈黙が落ちた。 「——ひとつ、訊いておきたいことがある、羅旋」  しばらく続いた沈黙を破ったのは、大牙だった。きっと頭をあげて、思いつめた目で羅旋にむかっていずまいを正す。 「なんだ、いまさら改まって」 「もしも——もしも、〈琅〉に行くとして、俺が〈琅〉に対して異心を抱いているという噂が流れたら、おまえはどうする」 「来いといったのは、俺だ。俺がこの首を賭《か》けるしかあるまいさ」  あっさりと、あまりにはっきりと言い切ったために、淑夜や徐夫余でさえ不得要領《ふとくようりょう》な顔で羅旋を見た。左車にいたっては、やりとりの意味すら把握できず、両者の顔を見比べている。  大牙だけが、その答えに太い眉根を寄せて反応した。そのまま、不機嫌そうな顔つきで、 「もうひとつ。約束ができるか」 「なんだ、とっとといえ」  羅旋は、面倒そうにうながした。なにをいまさら——といった口ぶりに、大牙はすこしむきになって、 「俺が行く以上、おまえが逃げ出すことは許さんが——誓えるか」  一瞬、張りつめた空気の中に、哄笑《こうしょう》が弾け出た。羅旋は頭をのけぞらせて笑っていた。 「そんなことか。いいとも」 「簡単にいってくれる。大事なことだぞ。——今の俺は死んだも同然、別のいい方をすれば、何の苦労も負債も背負ってはいない、気楽な身分だ。それを東へ——戦だの謀略だの、生臭い生き方の中へ引き戻そうというんだ。その責任は、おまえがとってくれなくては困る。たとえば、〈琅〉が政争を起こした時、不利な立場になったから、地位も部下もほうり投げて西へ帰るなどという真似は——羅旋、何がおかしい。いいかげんに、笑うのをやめろ。皆、真剣なんだぞ」  羅旋は、笑い続けていた。大牙が眉を逆立ててつめよってようやく、声を落としたが、まだ肩先で笑い続ける。笑いながら、 「俺が、そんなことをすると思うのか」 「思うから、いっている」 「いっただろうが。俺はもう、西では暮らせないと」 「だが——」  と、大牙は反論の声をあげる。  羅旋ほど宮仕えに向かない漢《おとこ》はいない。実際、長い間、人に仕えることを拒み、商家の一時雇いの用心棒のような生活を長い間、続けていた。たとえば政争が起きなくとも、いつ、「飽きた」といって、行方をくらましてしまうかわからない漢なのだ。少なくとも、大牙が知っていた赫羅旋は、そんな風のような漢だった。だから、その心配もまったく根拠のないものではない。  大牙は、自分の要求されている立場は理解している。一将軍として〈琅〉の意向どおりに動き、戦果をあげる自信、もしくは自制心も持っている。だが、命を的にして戦っている後方で、〈琅〉の方針が急転するようなことがあっては困る。  もし不慮の——たとえば王の急逝《きゅうせい》などの事態に、〈琅〉の方針が変わったとして、大牙の存在を切り捨てることが絶対ないと、羅旋が保証できるか。少なくとも、大牙やその配下に入る者たちの身の安全を確保するまでは逃げ出さないと、羅旋の口から約束をとりつけなければ、大牙は決断がつけられなかった。  だが、 「俺はもう、どこへも行かん。今夜、ここまで来たのは、おまえに頭を下げるためもあるが、草原を見納めにするつもりだった」  羅旋はさばさばとした口調で告げた。 「では——」  左車が、左肩をすこし前に乗り出した。淑夜と徐夫余が、顔を見合わせる。 「俺自身、腹をくくるために来たんだ。俺は、中原で生きていくしかない。親父の誓いとか、夜光眼が忌避されるとか、そんなことはいまさら、どうでもいい。ただ、俺は〈琅〉で今、たしかに必要な人間だろうし、中原の先行きにも興味がある。中原に、風を起こしてやろうとたくらんでいる。魚支吾や耿無影をあわてふためかせるほどの、大風をな」 「本気か」 「こんな時に虚言《うそ》をついて、どうする。ついたところで、すぐにばれる」 「それはそうだが——」 「疑り深い奴だな。おまえ、そんなに思い切りが悪かったか」 「煽《あお》ってもだめだ。怒らせて是《ぜ》と言わせる気かもしれんが、一生の大事だ、慎重になってなにが悪い」 「なら、一生、慎重とやらでいるといい。見ろ、そろそろ夜明けだ」  東の空の裾と地平線が交わる線が、ぼうと紅く染まっている。細い糸のような線が徐々に太くなり、空全体が明るく輝きはじめる。 「行くぞ」  羅旋が真っ先に立ち上がった。躊躇《ちゅうちょ》も未練《みれん》もない仕草だった。彼のやるべきことは、東にある。草原にも、そこにしがみつく大牙にも未練はないと、態度が示していた。  次いで、淑夜が立ち上がる。命じられる前に、無言で天幕の方へゆっくりと歩きはじめた。馬と荷物をとってくるつもりだろう。斜面に左脚をとられて、あぶなっかしいようすを見て、あわてて徐夫余が這《は》うように身を起こし、 「淑夜さま、俺が——」  意味の通らないことをつぶやきながら、後を追った。が、淑夜がほんとうにころびそうになった時、脇から伸びてきて腕をすくいあげるように支えた手は、徐夫余のものではなかった。 「大牙さま」 「『さま』はよせ」  不機嫌そうな声が、反射的にもどった。 「同輩がさまづけでは妙だろうが」 「——では!」  歓喜の声をあげたのは、徐夫余だった。彼の顔がぱっと明るくなったのは、最初の陽光が真横からさしてきたせいばかりではなかったはずだ。  左車を背後に従えて、羅旋もゆっくりと斜面を下ってくる。下からまだ、挑戦的ににらみつける大牙の顔を見て、にやりと笑ったが、 「来るか」  とは、わざわざ問わなかった。 「——馬を連れてくる。片付けることもある。少し、待ってくれ」  不機嫌なまま、かみつくような口調で告げる大牙にむかって、 「その必要はなさそうだぞ」  羅旋の笑いが、顔いっぱいに広がった。彼があごをしゃくってみせた先からは、荷物を鞍《くら》につけた淑夜たちの馬が、まとめて引かれてくる。歩いて引いてくるのは、族長の当鑼。左車の従者の少年も、主の馬と自分の馬の手綱を両手に引いてくる。  その後から、栗毛の馬に乗って来るのは、遠目でも紅い服で玻理とわかる。さらに、玻理はたくましい鹿毛《かげ》に荷物をつけて、引いていた。 「忘れ物はないと思うが、調べてくれ」  といいながら、当鑼はそれぞれの馬たちをまず、徐夫余に引き渡した。荷物といっても、たいした量ではない。淑夜とふたり分の荷物を、徐夫余がすばやくあらためて、うなずいた。 「水も食料も、そろっています」  いいながら、騅《あしげ》の手綱を淑夜の方に引いてくる。  だが、淑夜は馬のほうを見てはいなかった。  大牙が、近付いてきた紅い服の女を見上げ、 「何故、わかった」  詰問するような口調で、いったのだ。鹿毛の鼻面を押さえたところを見ると、これが大牙の愛馬なのだろう。 「見ていれば、わかるわ」  淑夜が玻理のことばを聞いたのは、これが二度目だった。名にふさわしい、透明な声だった。そして玻理は、切れ長な目でしっかりと漢を見ながら、 「引きとめないわ。そのかわり、あたしも行く」  表情ひとつ、変えずに告げたのだ。あわてたのは、大牙の方だ。 「まて、急にそんなことを——」 「父さまの許可は、得たわ」  女は平然と告げる。当鑼もうなずいて、 「嫁いだ女は、丈夫《おっと》に従うものだ」 「待ってくれ。俺は戦をするために東へ戻るんだ。おまえがいっしょに来ても、ひとりで待たせる。同じ待つなら、親族の者と慣れた草原で待つ方が——」  女を捨てる気までは、大牙にもない。ただ、戎族の女がいきなりただひとり、中原の人々の間に混じっても、苦労するだけだと判断したのだ。大牙が一国の王なら、権力で彼女を守ることもできる。だが、一武将——他人の命令には従わなければならない立場では、どうしても限界がある。玻理を苦しめるようなことはしたくないと、これは大牙のせいいっぱいの誠実さだったにちがいない。  だが、玻理は不思議そうな表情で、 「待つ? どうして?」 「玻理」 「あたしは、どこでもいっしょにいくわ。戦にも、当然。戎族の女は、戦い方ぐらい知っている。剣でも弓でも、ひけはとらない」  戎族には、弓——騎射が得意な者が多いが、これは非力な女でも技術さえあれば、十分に戦力になる。玻理が、騎射にすぐれていることは大牙も十分に承知していたが、 「しかし」  と、なおも、ためらった。救いの手をのべたのは、羅旋だった。 「かまわんだろう。父親が承認しているなら、俺たちの口を出すことじゃない」 「東でつらい思いをすることが、目に見えていてもか。それに、女を戦場に連れていくなんぞ——」 「〈琅〉の中なら、そう嫌な思いもするまい。王の一族からして、戎族の血を受けているし、俺や左車もいる。廉亜武《れんあぶ》将軍の夫人も、戎族だ。ああ、そういえば、苳児《とうじ》の侍女の茱萸《しゅゆ》も戎族だな。べつに、萎縮《いしゅく》したりいじめられたりしている風はなかったと思うが——」  同意を求めるように、淑夜の方をふりむいた。騅の手綱を押さえながら、成り行きをおもしろそうな顔で見守っていた淑夜だったが、ここでようやく、 「元気なものですよ」  声を発した。 「茱萸——というと、尤《ゆう》家からよこした娘か。まだ、苳児のそばにいてくれるのか」 「居心地がいいらしくてな」  苦笑まじりなのは、なにかを思い出したためらしい。それが、不快な記憶でないのは、徐夫余や左車までが、明るい微笑を浮かべていることでもわかる。 「しかし、女を戦場に——おまえが承知しても、兵が納得するか」 「一度、戦いぶりを見せれば、納得するさ。まあ、俺たちが勝てばの話だがな」 「だが、なあ」  と、大牙はまだ煮え切らない。もう光らなくなった翠《みどり》色の両眼が、おもしろそうにまたたいた。 「大牙、正直にいえ。おまえが一番、心配しているのは、冀小狛《きしょうはく》らの反対だろうが。それぐらいは、自分で説得しろ。——もしかして、東に戻りたがらなかった原因は、そのせいか」 「羅旋!」  ここで、ついに羅旋は我慢の限界にきた。 「俺は行くぞ。おまえに付き合っていたら、日が暮れる。俺たちには、やることが山ほどあるんでな。淑夜——」 「はい」  淑夜は騅につけた荷物の中から、小さな布包みを取り出した。 「これが、〈琅〉国内の通行証です。国都の安邑にも、これで入れ——」 「待て、俺も行く。置いていかれてたまるものか」 「なら、玻理は連れていくんだな」 「ええい——ままよ」  頭をかきむしる真似をして、大牙は鹿毛の背に飛び乗った。〈奎〉王だった頃は、乗ったこともなかった馬だ。その気がなかったわけではないのだが、王たる者が戎族の真似をするなどとんでもない、という風潮が強く、敢えて逆らってまで乗る必要性もなかった。だが、西へ来て真っ先に、大牙は馬に乗ることを覚えた。馬がなければ、この広い草原を往来することは不可能に近い。馬の機動性も、その弱点も、馬とともに生活し世話をし、馬に助けられて覚えていったのだ。  その甲斐あってか、馬上で背筋を伸ばした大牙は、まるで生まれた時から馬に親しんでいたような、風格さえ漂わせていた。ほう、と徐夫余が声に出し、左車が目を見張って感嘆の意を表した。 「さあ」  今度は、馬上から大牙が羅旋を見下ろす形になった。 「行くぞ。さっさと馬に乗れ」 「莫迦、命令するのは俺だ。おぼえておけ」  いいながらも、羅旋は笑っていた。淑夜たちはもう、それぞれの馬の上に身体を移している。当鑼が他にも数頭、替え馬として連れて来た馬の手綱を受け取り、出発の準備は万端、整っていた。羅旋と、見送る当鑼だけが地上から彼らを見上げていた。  その一同の顔を、ひとりひとり、ゆっくりと見つめてから、 「さて」  羅旋は大きく伸びをし、東の方角へむかって指笛を短く吹いた。無造作な仕草のわりに、鋭く澄んだ音が朝の空気の中を、どこまでも伝わっていった。どこで待っていたのだろう。ひときわたくましい黒馬が、稜線を越えて姿をあらわした。額の毛の一部だけが白いところから、月芽《げつが》——三日月と呼ばれている羅旋の乗馬だった。  駆け寄ってくる馬を、羅旋もゆるやかに歩を進めて迎える。まるで甘えるように鼻面をすりよせてくる月芽にむかって、 「帰ろうか、東へ」  ひとこと、告げたのだった。  これが、羅旋が草原に脚を踏み入れた最後となった。 [#改ページ]  第二章————————密謀      (一) 「〈征《せい》〉王の命は、長くない」  という噂《うわさ》と、 「一時は危なかったが、今はすっかり持ち直している。これで当分、〈征〉は安泰だ」  という声と、双方が存在している。〈征〉国内だけではなく、〈琅《ろう》〉にも、南方の〈衛《えい》〉にもその噂は届いている。 「どちらかは、意図的に流されたものにちがいありません。さて、どちらが真実でしょうか」 〈衛〉王・耿無影《こうむえい》にむかって、側近の商癸父《しょうきふ》が首をかしげてみせたが、無影は無言のまま冷笑をうかべたのみだった。そんなこともわからないのか、といった表情だった。  実際は、前者——〈征〉王・魚支吾《ぎょしご》の生命の危険をささやく声は、無影が意図的に流させたものだった。事実かどうかは、実は無影も知らない。昨年の〈奎《けい》〉の滅亡のおり、〈容《よう》〉だけは激戦の末に奪った〈征〉が、それ以上の追撃をせず、みすみす〈奎〉王・段大牙《だんたいが》を〈琅〉の手に渡してしまったところからの推論だった。ただ、この情勢なら、三割の人間は納得するだろうと予測して、実行に移してみたのだ。  実際に実行の指揮をとったのは、〈衛〉の人間ではない。商癸父は、無影の創設した学舎《がくしゃ》の中から、頭脳の優秀さを見込まれて抜擢《ばってき》された側近だが、手足となる一族、眷属《けんぞく》などはもっていない。まして、噂を撒《ま》くという地味で、慎重さを要求する仕事に使えるような人材など、抱えているはずがない。  商癸父は、国内の法の整備や財政に関してはなかなかの手腕をもっていて、農地の開発や税の増収策などは、任せておける。庶民の出であることと、少々強引なところがあるため、旧来の士大夫《したいふ》からは反感をもたれているが、無影の承認をいちいち細かなところまでとっているために、表《おもて》だった問題にはなっていない。  実は、無影自身は商癸父ら、学舎出身の若い官僚たちに、ある程度の| 政 《まつりごと》は任せてしまうつもりだった。だが最近、彼らの方から、無影の許可や命令を要求してくる傾向があることに気がついた。たしかに、門地の低い商癸父らを見下して、頑強に抵抗や反対をする旧来の卿大夫《けいたいふ》たちに対しては、無影の許可は有効な武器となる。他に頼るべき権威を持たない彼らがすがりたがるのも無理はないが、それでは商癸父らは、いつまでたっても他者の威を借りる小人でしかない。無影が居なくなれば、無影の業績も商癸父らの努力も、一挙に水泡《すいほう》に帰《き》してしまう。  針の先のようにかすかなものではあったが、それが無影の危惧《きぐ》となりはじめていた。  今ひとり、無影が軍事を任せている百来《ひゃくらい》将軍は、率直がとりえの武人である。戦場での正面きっての戦には強いが、外交や謀略には不向きだ。無影は、〈衛〉の一部となった小国〈鄒《すう》〉の政全般を百来に一任しており、期待どおり、〈鄒〉はまずまず無難に治まっている。だが、やはり無影の命じたこと以下のこともないかわり、以上の業績もあげてはこない。命令に忠実なのが、武人としての最大の長所である以上、百来に他のことを要求するのは無理というものだ。  他に謀略や諜報《ちょうほう》ができそうな人物としては、冉神通《ぜんしんつう》と名乗る方術を使う老人が無影の右筆《ゆうひつ》のような立場でいるにはいるが、無影は一定以上、近付けようとしていない。  素姓《すじょう》がはっきりせず、絶対の忠誠を期待できないこともあるが、彼の出してくる策を卑怯未練《ひきょうみれん》と無影は断じているのだ。  方術が悪いというのではない。たしかに、彼の作りだす十里霧や雷火は、戦の局面を切り開くのに役にたつ。諜報や予言といった面でも、冉神通がひとりいるのといないのとでは、違うこともある。ただ、そんなもので人の生命や運命を、路傍《ろぼう》の小石を動かすようにもてあそぶことを、無影は嫌った。 「冉神通の方術が万能なら、躬《み》などいなくてもよいではないか。あれを王にすれば、旱魃《かんばつ》も洪水もなく、飢える者も傷つく者もいない道理。真面目に働く者もいなくなる。あれの知遇を得れば、楽ができるのだからな。つまり、ひとりの恣意《しい》で多くの人生が左右されるということだ。ただ、現実にそうならないのは、あれの術にも限界があるからだ」  そう切ってすてたことがある。  他に、無影が信頼をおけるだけの力を持った人間は、いまだに〈衛〉には現れていない。なんとかしなければと思いつつ、他に人材も見いだせない状況を、無影は苦痛に感じはじめていた。  結局、無影が極秘裏に依頼をしたのは、尤暁華《ゆうぎょうか》——〈衛〉の国都に住む、商家の女あるじだった。尤家に仕える者、また出入りする商人たちならば、遠くまで出かけていって、商談の合間に噂をさしはさむことなど造作もない。国主の動静が、商売にも大きく反映するため、どの国の商人たちも噂話には敏感だ。ひとりに話をすれば、翌日には十人に伝わっているだろう。敏感ではあるが、商人は慎重でもあるから、噂を頭から信じこむことはないだろうが、それでもいい。要は、噂が広まればそれでいいのだ。  国の中枢の不安材料は、軍の士気にも影響する。民の不安は、政にも反映する。微妙なものでいい、ゆさぶりをかけられれば十分だと無影は考えており、それだからこそ暁華も承知した。 「あたくしどもは、商人ですから。頼まれれば、仕事はいたします。でも、効果が出ないからと、報酬を値切られたり、責任を問われたりするのは困りますもの」  もちろん、仕事に見合うだけの十分な報酬が、尤家に渡っている。主に〈衛〉よりもさらに南方で採れる、大木や香料、それに農産物といった品物で受け取った尤家は、それを〈征〉へ運んで売りさばき、大もうけをしたらしいが、それは無影の知ったことではなかった。  尤暁華の利口《りこう》なところは、得た報酬を〈衛〉の主だった商人たちにも安い価格で頒《わ》けたところだ。利益を分散させることで、他人の嫉妬《しっと》をかわし、同時に損をしないというやり方である。 「不必要に利益をあげても、仕方ありませんわ。尤家がこれ以上豊かになったところで、贅沢《ぜいたく》にも限界がありますから。それよりは、もっと有益なことに費やした方が、ましというものです」  もう二十代の後半だが、小娘のような軽く明るい声で暁華は笑ってみせた。下手な臣下と話をするより、出入りの商人でしかない暁華との会話の方が、ほっとするのは何故だろうと、ひそかに無影は首をひねっていた。 [#挿絵(img/06_065.png)入る]  男女の情からでないことは、はっきりとしていた。若くして寡婦《かふ》となった尤暁華だが、男顔負けの商売をとりしきるだけあって、時には男勝りの気の強さをみせる。さすがに正面きって反論するような真似はしないが、皮肉やあてこすりで批判的な態度を見せる暁華を、不快に思うほど狭量ではないが、かといって、人一倍誇り高い無影が好ましく思う道理がない。  暁華が男だったら、財産を没収してでも商売をやめさせ臣下に加えていたかもしれないが、尤家が〈衛〉に利益をもたらしている現在のところは、これ以上、彼女に要求をすることはなかった。 〈征〉への工作に関しても、尤家がもたらしてくれた結果には満足していた。流した噂に対して、真っ向から対立する世評が出てきたからだ。正直すぎるほどの反応だった。流言の存在にあわてた者が、それを打ち消すために意図的に人にいわせているものにちがいない。  本来なら、元気な魚支吾の姿を人の目に見せることが、最も効果的なやり方だ。どんな場面でもいい。ちらりと横顔を見せるだけでいい。 〈衛〉との国境の目と鼻の先に、〈征〉は新都を建設中だ。主要な建物と城壁の半ばはほぼできあがり、一部には人も住みはじめている。工事の仕上がりを視察に行くだけで、健在ぶりを誇示できるのに、この一年、魚支吾は漆離伯要《しつりはくよう》という学者あがりの官吏に建設を任せ、ようすを見にこようともしていない。これでは、重病といいたてられても不思議はない。  無影が魚支吾の立場なら、視察が不可能なほど重態の場合は、替え玉を立ててでも、健在のふりをする。また、魚支吾が本当に病でも、権力を完全に掌握していれば、おそらく同じ程度の小細工はしてきただろう。この、莫迦《ばか》がつくほど正直な反応は、魚支吾の指示ではないという確信が、無影にはあった。  詳細は、さすがにさぐりきれなかった。〈容〉に物資を集めて、〈琅〉を攻める動きを見せはじめたから、そろそろ癒《い》えたのかもしれない。だが、これもまた、噂を打ち消すための陽動かもしれないと思うと、無影もうかつには動けなかった。まして、〈征〉がほんとうに〈琅〉と事を構えるつもりなら、敢えて〈衛〉が手を出す必要はない。むしろ、仕組んでも両者をかみあわせ、双方の国力が疲弊《ひへい》するのを待って、どちらか——事と次第によっては両方を攻めとることも可能になってくる。  ここはしばらく、じっと成り行きを見守るのが得策というものだった。  気がかりがあるとしたら、〈琅〉に捕らえられ、そのまま〈琅〉に仕えることになったらしい耿淑夜《こうしゅくや》の動静ぐらいなものだっただろう。  実は、淑夜からの要請があれば、無影は〈琅〉から彼を引き取ってもいいつもりでいた。以前のいきさつのしこりは、まだ互いの胸の底にわだかまっているが、淑夜の才能は看過《かんか》するには惜しい。淑夜にとっても、〈衛〉は故国である。故国のために働くなら、説得に応じるかもしれないと無影は考えたのだ。だが、消息をさぐらせているうちに、淑夜は赫羅旋《かくらせん》の麾下《きか》にはいったという話が、この尤暁華の口からもたらされた。 「赫羅旋? あの戎《じゅう》族か」  無影と羅旋は、一度だけ面識がある。ずいぶん以前、〈魁《かい》〉が滅んでまもなくの頃だったか。まだ国主になる前の藺如白《りんじょはく》の随身、護衛役として〈衛〉に現れた羅旋を、無影ははっきりと覚えていた。 「淑夜さまは、羅旋から恩義を受けておりましたから、たのまれればいやとはいえないんですわ。あら、そういえば——」  暁華がめずらしく困った顔をした。 「なんだ」 「恩義というのは、怪我をした淑夜さまを救って、義京《ぎきょう》のあたくしの家まで連れてきたというもの。とすると——」  その怪我がいつのことで、何故、そんな目に遭ったかということを、無影は知り過ぎるほど知っていた。彼自身の左頬をかする傷痕《きずあと》が、いやでもそれを思い出させる。 「あなたさまが、淑夜さまを羅旋におしつけたということになりますわ。皮肉な話ですけれど」  痛いところを衝《つ》かれたが、その動揺を他人に悟らせないだけの自制心が、無影にはあった。自制が、効きすぎていたのかもしれない。  この春、段大牙の消息を尤暁華がもってきた時も、彼は表情を動かさなかった。 「大牙さまが、安邑《あんゆう》に入られたそうですわ」 「何故だ」  とは、無影は訊《き》かない。 〈琅〉のやり方からして、いずれはそうなるだろうと思っていたからだ。ただ、これほど早いとは正直、予測していなかったらしく、 「確かか」  声音に、わずかに不信の色をくわえた。 「確かですわ。安邑の街路で、大牙さまの姿を見た者が報告をよこしました。中には、大牙さまは西に逃げて行方不明だったものを、淑夜さまが捜しだして捕らえたのだとか、〈琅〉に再びつかまったからには、処刑されるにちがいないとか、妙な噂もあるにはありますけれど」  悪戯《いたずら》っぽい目で無影を見ながら、暁華はさらりといってのける。噂が、どの程度無責任なものかは、十分承知の上で、無影の反応を見ようとしたのだが、これは失敗に終わった。 「実際、大牙さまを迎えに行ったのは、淑夜さまだそうですわ」  わざとらしく嘆息しながら、暁華は知っているかぎり正確な情報を話しはじめた。尤家の息のかかった者が、〈琅〉公家——いや、今は王家の中にいる。そこから漏れてきた話はまず、間違いがないはずだ。 「聞いたかぎりでは、礼を尽くして迎えられたとか。ひと月ほど前の話だそうです。すぐには無理でしょうが、いずれ、きちんとした地位を与えられて、〈琅〉のために働かれることになるそうですわ」 「〈魁〉王家の連枝を顎《あご》で使うとは、〈琅〉公もたいした成り上がりぶりだ」  ここでようやく、無影は冷笑をもらした。〈琅〉公も、の「も」の部分が微妙に強調されたのは、これが自らにむけた嘲笑《ちょうしょう》だからだ。 「ですけれど、大牙さまは承服なさったとしても、やはり如白さまとしては、命令などしにくいのではありませんか。たしかに、大牙さまは武将としても優れた方ですし、〈琅〉も人材が欲しい時ですけど。無理が生じなければいいのだけれど——あら、それとも陛下としては、〈琅〉に無理が生じた方がよろしいのでしょうかしら」  いいにくいことを、笑いながらずばりという。これも、無影が暁華の出入りを許している理由のひとつだ。彼女は少なくとも、いちいち説明をしなくとも、無影の腹の底をある程度読んでくる。 「当分は、そんな隙は生じるまい。〈征〉との戦を目前に控えていてはな」 「戦になりましょうか。魚支吾さまは、ご病中にまちがいないというのに」 「今でなければ、意味がない。でなければ〈琅〉の王号|僭称《せんしょう》を認めたことになる。認めてしまったら、帥《すい》を発する大義名分がなくなってしまうだろう」 「陛下は、僭称を認められますの?」 「〈魁〉王が亡い今、正統も僭称もあるまい」  無影も、魚支吾もしょせんは僭王《せんおう》である。 「それにしても、〈琅〉が大牙さまを必要とする理由が、あたくしにはわかりかねます」 「なかばはわかっているはずだ。〈奎〉の旧臣たちを、自軍として動かすためだ」 「はい、そこまでは。ですが、〈奎〉の旧臣は千人いるかいないか。また、その方たちをひとつの軍に編成する必要が、ありますでしょうか」 〈琅〉には、有力な将軍が四人いる。その下へ、ばらばらに編入してしまえばすむことで、実際、これまでに〈琅〉に下った者は、そう扱われている。 「一軍にまとめることで、より以上の力を発揮することもあるだろう。ことに、故国を奪回するような場合にはな」 「——〈奎〉。青城《せいじょう》ですか」  もともと、〈奎〉は〈魁〉の直轄地に隣接する小国で、〈魁〉の都・義京《ぎきょう》の東の守備の役割をになっていた。要害、巨鹿関《ころくかん》も本来、〈奎〉の領内である。今は〈征〉の治める地となっている故国を、そして国都・青城を〈征〉から奪い返せるものなら、彼らは懸命に働くだろう。  むろん、〈琅〉が〈征〉に勝利した場合、旧・〈奎〉領に段大牙を封じるという約束が提示されていると見てまちがいない。 「忘れていましたわ。大牙さまもあたくしも、義京やその周辺から離れて、長い間たちましたから」  暁華は、また嘆息した。今度の吐息には、彼女自身の複雑な心情がこもっていたようだ。ただ、暁華も長い間、感傷にとらわれているわけにはいかなかった。無影が、こう告げたからだ。 「奴らは、百花谷関《ひゃくかこくかん》に来る」 「まさか」  巨鹿関が東の守りなら、百花谷関は義京の西の要《かなめ》だった。ふたつの山脈に南北を守られた、いわば回廊のような土地の中に義京はあった。百花谷関を破れば、巨鹿関までは拠《よ》って守る要衝はないに等しい。最近、〈征〉が義京の防備を少し増強しているが、防壁にはならないだろう。  巨鹿関のすぐ東は長泉《ちょうせん》の野。〈征〉が国の威信をかけて建設している新都は、目の前である——。  むろん、巨鹿関を抜くのは容易ではないだろう。百花谷関も要害である上、その外は一応、〈衛〉の領土となっている。一応、というのは、地形が平坦《へいたん》で、ここからここまでと線を引く目安がないことと、〈琅〉から攻められた場合、〈衛〉には守る方策も利点もほとんどないに等しい土地だからだ。  人家も耕作地もない、ただの荒れ地を命がけで守るほど、無影も莫迦《ばか》ではない。 「お通しになりますの?」  と、暁華に訊かれて、彼は薄笑いをうかべながら、なんのためらいもなくうなずいた。 「百花谷関は、簡単に開くだろう。ただし」 「ただし? なんですの?」 「巨鹿関では、どうなるかな」  暁華が細い眉を寄せるのを見て、無影はかすかな満足をおぼえた。これで、じたばたと動きだすような女でないことは、無影も承知している。だが、この後、すぐに〈琅〉に人をさしむけることは、まちがいないだろう。〈琅〉に全面的に味方することはないだろうが、商売の種になるなら、無影の言動を〈琅〉側にもらすこともあるだろう。そうした場合、さて、藺如白《りんじょはく》は、赫羅旋《かくらせん》はどう出るか。そして、淑夜は——。  しばしの沈黙が、その場に落ちた。外は暖かな陽差しに満ちていた。南方の〈衛〉は、四季を通じて温暖だが、ことに春は美しく過ごしやすい。木々がいっせいに花をつけ、花を散らす風景は、〈衛〉人の自慢でもあったが、無影のこの国主の館の内部は、暗くどこか寒々としている。  それが、館の広さにばかり関係しているわけでないことを、暁華は知っていた。 「話題を変えましょう」  花から連想が移ったのだ。いささか強引だとは思ったが、暁華は口調をあらため、いずまいを正した。 「お怒りは覚悟の上で、敢えて申し上げたいことがございます」 「何事だ、尤《ゆう》夫人」 「そろそろ、香雲台《こううんだい》のお方の身の振り方を、考えてさしあげてはいかがでしょう」  国主の館の内殿には、香雲台という華麗な殿宇《でんう》がある。先の国君・堰《えん》氏が妻妾《さいしょう》のために建てたものだが、無影はこれをそのままの用途に使っている。といっても、彼が主君を弑逆《しいぎゃく》してから数年、無影の夫人として住まう女は、ひとりだけだった。  |※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]連姫《しんれんき》という佳人は、しかし、無影の妃ではない。正室の座が空位なのは、政略結婚の可能性を残しておいたものなのだが、公国、伯国だけでも十に余った〈魁〉の時代ならともかく、今、〈衛〉が手を結んで利になるような国は、〈征〉か〈琅〉しかない。〈征〉とはどう考えても利害が一致しないし、魚支吾の一族の中には、適齢の女子がみあたらなかった。  無影と釣り合う年齢という意味では、先代の〈琅〉公の妹がひとりいる。しかも、玉公主《ぎょくこうしゅ》との異名があるほどだが、未亡人の身である。実際には、政略のために嬰児の身で〈魁〉王家に嫁ぎ、十歳のころには寡婦となっていたから初婚も同様なのだが、現在、親がわりの叔父で国主の藺如白が、再嫁《さいか》には賛成していない。  幼い頃から苦労をさせた。その姪《めい》に、結婚を強いることはできない、というのが、如白の言い分である。国主となる前の話だったから、叔父としての本音だろうし、無影も理解はできた。ただ、如白が国主となり、さらに王号を称したために、玉公主の価値もずいぶん変化してしまった。彼女が〈魁〉王家の最後のひとりという見方をすれば、玉公主・藺揺珠《りんようしゅ》は〈琅〉が王を称し、中原の統一を口にする大義名分となり得る。その旗印を、他国へみすみす嫁がせるような真似は、如白でなくともしないだろう。  つまりは、無影が結婚を利用する意味は、もうなくなった。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》連姫を正妃にひきあげても、苦情はどこからも出ないはずだが、 「その必要はない」  無影は、かたくなに拒否した。女であることを最大限に利用して、内殿に直接出入りする暁華は、連姫とも親しく口をきく。連姫の本音を、わずかなことばの端々から引き出すことのできるのは尤暁華だけと、内殿ではささやかれていたのだ。  二年前、無影の子を流産して以来、連姫は床に伏せっていることが多くなった。ほっそりと色白で風にも耐えぬ風情で、白い花に似た憂《うれ》い顔はそれまでもほとんど笑ったことがなかったが、今では侍女たちの前に顔を見せることさえ嫌うようになった。無影が忙しくなったこともあり、ひと月に顔を見るのは一度か二度という状況である。それを、暁華は頻繁《ひんぱん》に内殿を訪問し、強引に連姫を院子《にわ》に引き出したり、長い間話しこんでいったりする。暁華の前でも連姫は笑わないが、かすかに眉宇《びう》のあたりが晴れるのは確かだった。 「では、どうあっても」 「あれを妃に立てたからといって、何が変わる」  連姫に関することとなると、無影の機嫌も一気に悪くなる。それにも慣れているはずの暁華だったが、 「それでは、申しあげることがございます」  きりりとした細い眉のあたりを曇らせて、口調をあらためた。 「正妃にお立てにならないなら、いっそ、下がらせてさしあげたらいかがでしょう」 「——なに」  左頬の傷痕が、一瞬、紅潮した。 「なんといった」 「連姫さまを、お手離しになられてはいかが。そう申しあげました」 「あれが、そういったのか」 「いいえ」  無影は一見、平静な表情を保っているだけに、かえって内面の怒りのすさまじさが気配となって噴き出していた。それが察知できない暁華ではないが、ことさら強い態度できっぱりと首をふることで、対抗しようとした。 「あたくしの意見ですわ。でも、このままでは、連姫さまの存在はどうなります。いてもいなくてもいい夫人ならば——お子が生めないのなら、なおさら」 「躬《み》の子など、欲しくなかったくせに」  ということばを、無影はあやういところで飲みこんだ。いつもは冷静すぎるほどの彼だが、この問題になると抑制がはずれそうになる。それでも、踏みとどまってしまうのが、無影という男だった。彼が感情を爆発させたのは、ただ一度。自分の一族の犠牲を踏み台にして、前国君・堰《えん》氏を滅ぼした時だけだ。それも、いくつもの段階を踏み時間をかけての仕業であり、声を荒げたことはほとんどなかったはずだ。  くちびるを白くなるほど噛みしめて黙ってしまった無影に、暁華は肩でため息をついた。あきらめの嘆息だった。こんな表情を見せたら、無影はこの場では二度と口をきかない。これは、議論はここで打ち切りだという合図なのだ。出入り禁止を言い渡されないだけ、ましというものだ。  暁華は連姫にも無影にも同情しているし、連姫のために力になれたらとも思う。このふたりは、お互いが思っているほど憎み合ってはいない。奇妙な愛憎が交錯し続けて、背を向け合うしかなくなってしまったのだ。 (きっかけがあれば)  と、暁華は思う。だが、実際にどうすればいいのかとなると、暁華にも見当がつかなかった。 (あたくしの恋は、もっと単純だったもの)  学識だけがとりえの、零落《れいらく》した名家の子息とひと目で互いに恋に落ちた。身分違いだという親たちの反対を、私奔《かけおち》というかたちで押し切って夫婦になった。丈夫《おっと》は、物静かだが芯の強さを持った漢《おとこ》で、十代の頃の暁華の火のような奔放さをしっかりと受け止めてくれ、暁華は自分の気持ちにまっすぐ行動すればよかった。  ふたりの暮らしは数年しか続かなかったが、暁華は今でも悔いていない。丈夫が亡くなり、両親も没して家業を継いだ後、ずっと寡婦《かふ》で通しているのも、丈夫の記憶がまだあざやかだからだ。  おのれの野心もあったとはいえ、一族を犠牲にするほど恋した女に、背をむけてしまう無影の屈折が、暁華には理解はできても容認はできなかった。 「——香雲台へうかがってから、帰ります。〈征〉のことで、何か知らせが参りましたら、人をよこしますわ」  そういって、暁華は立ち上がる。無影は顔をそむけたままである。 「陛下」  侍従を先触れとして、脚音をたてて商癸父の若い顔が現れたのはその時だった。 「失礼いたします。急ぎ、ご報告が」  と、ちらりと、暁華の方を横目で見た。  無影は、一段高い座に座っていたし、暁華はかなり離れた場所にのべられた筵《えん》を座としていたから、勘ぐられるような状態ではない。また、無影の子飼いの臣ともいえる彼らは、尤暁華の価値と性格を十分承知していたから、妙なことを考える者はいなかった。ただ、大切な情報を、〈衛〉人でない、しかも女風情に聞かせていいものかと言外に問うたのだ。その視線の意味がわからない暁華ではない。 「では」  裳の裾を払って、広間を出た。急を告げる商癸父の顔色が気にかからないわけではなかったが、それほどの大事なら、かならず彼女の耳にも入る。一刻を争うことなら、すぐに退出すればよいことだ。  思いながらも、彼女は脚が早まるのを止めることができなかった。 「何事だ。大仰《おおぎょう》な」  こわばった表情は、急には解けない。きつい視線が商癸父を刺した。二十歳をすこし出た若者が、背を丸めてその場に固まってしまうほど鋭い目だった。 「早く申せ」 「は、はい、申しあげます。〈征〉軍が、国都を進発したとの報告が、まいりました」 「行く先は〈容〉か」 「はい」 「——魚支吾め、健在だったか。それとも快癒《かいゆ》したのか」 「いえ、動いたのは先発の軍で、本営はまだとのこと。ですが、先発、本隊を含めてその数、十万にも及ぶのではないかとの、報告でございます。いよいよ〈琅〉をつぶす構えと見ました」 「そうだろうな」  魚支吾が病中だろうが、〈征〉としては〈琅〉王の存在は許してはおけまい。〈奎〉を吸収して、急激に国力をつけてきた〈琅〉は、今のうちに叩いておく必要があるのだ。いや、もう遅きに失したかもしれない。本当なら、去年、〈奎〉が滅んだ時に一気に、安邑まで攻めこんでおくべきだったのだが——。 「それでも、まだあきらめていないということか。念のため、〈鄒《すう》〉の百来《ひゃくらい》に使者を送れ。準備の整い次第、躬も〈鄒〉まで行く」 「ですが——」  反論の声に、冷たい一瞥《いちべつ》がかえった。 「なんだ」 「この時期に陛下が国都を離れられるのは——」 「この時期だからこそ、〈鄒〉に行くのだ」 「なに故に」 「わからぬなら、訊くな」  声音はあくまで冷静だが、内心で無影がいらだっていることに気づいて、商癸父は黙ってその場で平伏した。  おのれの思考に他人がついて来られないことが、無影にとっては最大の苦痛だったかもしれない。そして、いちいち解説してやる忍耐力を持ち合わせていなかったことも、彼の不幸だった。  商癸父も、莫迦ではない。実務はたやすくさばくし、たとえば食料や資材の調達、補給といった戦の準備などは、任せてもあぶなげがない。外交の面からいっても、十分局面を見て、利害を判断することはできる。ただ、それにも限界があるし、なにより若い。経験のなさを補う度胸や学問も、無影にくらべると格段の差がある。というより、無影が特殊すぎるのだ。  無影が、| 政 《まつりごと》を徐々に商癸父らに任せたいと思っているのは確かだが、過剰な期待が裏切られるたびに、いらだちを隠せない。だまって、任せるなり考えさせるといった余裕がないのだ。結果、商癸父たちの萎縮《いしゅく》を招き、命令がなければ動けない人間を仕立ててしまう。悪循環に気づいていながら、どうしてもこの環は断てなかった。 「躬は先に行くが、軍はいつでも発することができるよう、準備を整えておくように。大きな戦にはならぬと思うが、いつでも新都を攻め陥とせるだけの構えを見せつけるためには、数が必要だ」  主君の頭の回転の速さに、とっさにはついていくこともできず、商癸父はただ頭を下げるだけだ。 「それから、おって〈琅〉の使者がくるはずだ。それは、いったん国都に留めて、〈鄒〉まで別の使者をよこすように」 「〈琅〉の使者——ですか?」 「丁重に扱え。今後、〈琅〉の弱みを握る、絶好の機会だ」 「は——」  不得要領なまま、三度、商癸父はうなずいた。 「行け」  命じられて、そそくさと商癸父は姿を消す。ひとり残った無影は、軽く目頭のあたりを押さえた。これが、おのれのやってきたことの結果かと、ふと、思ったのだ。  さまざまなものを犠牲にして追い求めた理想が、こんな形にしかならないのは何故なのだ。何が間違っていたのか。おのれが間違っていたのだろうか。 「そんなはずはない」  声に出して、無影は打ち消した。そんなはずはない。古い、腐りきっていた〈衛〉を、そして中原を再生させるためには、思いきった手段が必要だった。無影が〈衛〉を奪ったことで、〈魁〉の古い秩序が一気に崩れ、今日の状況が生まれているのだ。 〈奎〉をはじめとする小国は自滅し、今、中原で国の形を保っているのは、〈征〉と〈衛〉、そして〈琅〉ぐらいなものだ。そのうち、〈征〉と〈琅〉が咬《か》み合おうとしている。どちらが勝つにしろ、国力を消耗するのは見えているし、その間静観できる〈衛〉が、その後の展開で優位にたてるのはまちがいがない。 〈衛〉が中原を統一する日は、無影が考えていた以上に早くやってくるだろう。なのに、この空しさはなんだろう。自分が作る国は、どんな国になるのだろう。  漠然とした不安と虚無感に、無影はおそわれたのだ。 (これは——いったい、なんだ?)  こんな不安は、今まで感じたことがなかった。予感といってもよかった。 (まだだ。躬の仕事はこれからではないか)  ひとり、拳をにぎりしめた。みずからを鼓舞するように、肩をそびやかし、ことさら視線を上に向けたが、目に入るのはだれもいない広間の梁《はり》だけだった。孤独感に、彼はひとりで耐えるしかなかった。      (二)  孤独という点においては、この時点で魚支吾《ぎょしご》もまた耿無影《こうむえい》と同様だったかもしれない。ただ、彼の周辺には常に人の気配があった。一室にひとりで在《あ》るという事態は、夜、深い眠りについている時ですら有り得なかった。  常に灯火の世話をする侍女がひとりと、太医《たいい》のうちのひとりが必ず、彼の枕もとに待機していたのだ。  時に、人の気配がうとましくなり、孤《こ》はそれほどの重症ではないと主張するのだが、太医たちはがんとして引かなかった。 「陛下のご快癒《かいゆ》を願えばこそでございます。どうか、ご容認のほどを」  昨年、彼は陣中で激怒《げきど》し、それがきっかけとなって昏倒《こんとう》した。太医の手当が早く、さいわい大事には至らなかったが、以後、健康がすぐれないのは事実である。  寝たきりにこそならなかったものの、激しい運動はもちろんのこと、直後は政務を見ることも太医たちに禁じられてしまった。興奮して、再び発作を起こした時の保証ができないと彼らは口をそろえて訴えたのだ。  半年ほど、じりじりするような思いでそれに従った魚支吾だが、それが我慢の限界だった。  三月前から、彼は政務に復帰した。といっても、朝廷にでることはできず、奥で届けられる書類を決済するだけだった。外でささやかれていた噂は、王を興奮させてはいけないという太医たちの配慮で、絶対の秘密とされた。耳に届いていたら、病床にあっても辛辣《しんらつ》な手を打っただろうが、また病状を悪化させたにちがいない。  人払いについても、いざ、ひとりになった後の不安を感じないほどの気力も、今の魚支吾にはなかった。なにより、昨年、昏倒した時の胸の激しい痛みと、視界の暗さの恐怖を記憶に刻みつけている彼は、太医に恐懼《きょうく》しながらも頭を下げられると、押し切ることができなかった。  そのくせ、戦の準備の報告を持ってくる者には、たとえうとうと眠っていても、起きて衣服を改めて対した。  といっても、禽不理《きんふり》将軍らは出兵に批判的で、叱咤督促《しったとくそく》をしないと報告に現れることも稀《まれ》である。彼らの言い分は、 「昨年の春の戦で、〈容《よう》〉一国しか手中にできませんでした。それに費やした人員や食料、資材、金銭のことを考えると、決して勝ち戦とは申せませぬ。〈征《せい》〉は広大で国力も盛んとはいえ、無尽蔵《むじんぞう》ではなく、百姓《ひゃくせい》の疲弊《ひへい》もそろそろ考えてやらねばなりませぬ。まして、これから耕作にかかる者らを二年続けて駆りだせば、収穫量が落ちるのは目に見えております。せめて、戦は秋までお待ちくださいますよう」  臣下を代表して奏上《そうじょう》してきた禽不理は、決死の形相だった。彼が怯懦《きょうだ》でないことは、魚支吾もよく知っている。壮年のこの将軍は、おそらく〈征〉の中でもっとも勇敢な武人だろう。武人であり、一国の宰相としての力量も持ち合わせている人材であり、いつもの魚支吾なら、耳を傾けるだけのことはしただろう。  しかし、 「何も申すな。昨年、時を逸《いっ》した悔いが、まだうずくのだ。待てば、その分相手に力をつけさせてしまう。この件は、一気に片づけてしまうしかないのだ」  時がないのだ——とは、口が裂けてもいえないことばだが、禽不理はそれを言外に聞き取ったらしい。悲痛なおももちで引き下がり、以後、二度と自分の意見を口にしようとはせず、命令に淡々と従っていた。  報告を頻繁によこすのは、漆離伯要《しつりはくよう》だった。もっとも、現在、新都の建設にかかっている彼自身が現れることはほとんどなく、使者が口上と報告の簡《かん》を持ってくるだけだ。  時に、 「伯要め。まるで新都がおのれの都のように書いてよこす」  苦々しくつぶやくことはあったが、それでも、魚支吾の要求と好奇心を満たすだけの内容は、十分にあった。新都の建設を着々と進めながら、その一方で糧食を整え兵の編成まで指図して、先鋒《せんぽう》軍の一歩早い出発までこぎつけたのだ。たしかに、彼以上に有能で、魚支吾の意図に添う者は、今の〈征〉にはいなかった。  もっとも漆離伯要には、ここで魚支吾を完全に満足させておく必要があった。去年、魚支吾が〈容〉に攻めこんだ時、彼は新都の守りについていた。その新都を脅かしたのが、〈奎《けい》〉の段大牙《だんたいが》と密約を結んでいた〈衛《えい》〉王・耿《こう》無影である。  才人として名高い無影を退けてみせると豪語して、新都の守りを固めた漆離伯要だが、功を焦るあまり、無影にむかって舌戦《ぜっせん》を挑み、敢《あ》え無く論破《ろんぱ》されてしまった。  結果としては、〈奎〉の崩壊を見抜いた無影が早早に手を引き新都には実害はなかったのだが、そのおりの言動に関して伯要は後に、非難を浴びたのだ。  たしかに不遜《ふそん》ないい回しもあったし、言質《げんち》をとられても仕方のないことは認めるが、国を売りかけたの、〈衛〉に降伏しようとしたのという噂は絶対に不利だった。むきになって否定すればするほど、噂が広がるのはわかっている。かといって、〈征〉の朝廷のほとんどが冷たい視線をむけてくる状態には、さしもの漆離伯要も長く耐えることができそうにもなかった。他人の敵意など、歯牙《しが》にもかけてこなかった彼だが、それが実際に彼を排除しようという空気になってくると、話は別だ。  残された手段は、ふたつにひとつ。誰にも文句のつけようのない功績をあげて、確固たる地位を手に入れるか、今まで築き上げてきたものを捨てて逃げるか、だ。  後者を選ぶつもりは、今のところ、伯要にはなかった。彼の野望は、中原一の勢力を誇る〈征〉にあってこそ成立するものだ。魚支吾の、絶対の権威を背景にしてこそ、威力を発揮するものだ。  彼が、〈琅《ろう》〉との戦を急ぐ魚支吾をさらにあおったのは、当然のなりゆきだった。魚支吾の回復がかんばしくないことが、彼をさらに焦らせた。本人はそんなつもりはないというだろうが、一年で再び十万の大軍を編成しなおすという荒技をやってのけたのは、やはり漆離伯要の焦りだったにちがいない。それとも乾坤一擲《けんこんいってき》の大勝負と呼ぶべきか。  敗れれば、少なくとも〈征〉での立場が格段に悪くなることは覚悟の上だった。魚支吾が途上で没することも、考慮のうちにはいっているが、 「心配ない。手はうってある」  彼は楽観的だった。  太子の佩《はい》は今年十二歳の若さである。魚支吾に万が一のことがあった場合、後を継ぐのはこの少年だが、彼は漆離伯要の学問上の弟子でもあるから、決して伯要をおろそかにするようなことはあるまい。摂政は当然立てられるだろうが、魚佩に献策し少年を通じて国を動かしていくことはできるだろう。念のため、少年の側近には頻繁に、しかし目だたない程度にあれこれと働きかけをしてある。 「太子殿下におかれましては、この度、初陣《ういじん》の由、おめでとうございます」  久々に国都・臨城《りんじょう》にもどり、ようやく魚支吾に謁見できた時、最初に漆離伯要が口にしたのも、魚佩に対する祝辞だった。  少年を成人と認めるのは早すぎる。ふつうは二十歳、早くて十五歳ぐらいが成人の目安だが、たとえば〈魁《かい》〉の王孫と玉公主《ぎょくこうしゅ》のように、まだ嬰児《えいじ》のうちから一人前と見なす場合もないではない。十二歳は、十分おのれのおかれている立場が理解できる年齢だと父親の魚支吾が判断し、この年の正月に成人の儀をあげたのだ。  小柄な身体を、形だけはおとなの深衣《しんい》につつんだ少年は、より小柄に見えた。顔色も、まだ全快していないという父親よりも青ざめていた。漆離伯要のあいさつにも、口の中で小さく答礼したのみで、 「これ、はっきりと答えてやらぬと、漆離伯要も次の話題に移れぬ」  魚支吾に促されても、かるくうなずく仕草を見せるのがやっとだった。支吾もそれ以上は強要せず、 「よく参った。先鋒軍の出立《しゅったつ》までよくこぎつけてくれた。まず、誉めておこう」  伯要をねぎらった。  脇に低い几《き》を置き、よりかかれるようにして、魚支吾は上座に座っていた。長い間、陽にあたらなかったために白くなった顔に、きれいに整えた口鬚《くちひげ》と、鋭い眼光だけが変わらない。いや、両眼の中の光は、以前より強くなったかもしれない。執念の光だと伯要は見てとった。生きて、みずからの手で中原を再統一するのだという執念だった。 「陛下におかれましても、ご平癒《へいゆ》のこと、お喜び申しあげます」 「うむ。新都の方は、どうだ」 「羅城《らじょう》の建設も、ほぼ終わりました。城市《まち》としての機能も、動きはじめています。いつ、国都としてもおかしくない仕上がりです」 「遷都《せんと》か」 「は、私としては、一刻も早く陛下にお遷《うつ》りいただきたいのですが、戦とあれば致し方ございませんでしょう」 「孤も、早く見たいと思うておる。この戦が終わったら、遷都も可能になるだろう」 「それでは——」 「まだ、内々のことだ。禽不理らにはまだ、話してもおらぬ。話すと、費用がかかるのなんのとうるさいのでな。だが、国の威容を示すためには必要なことだ」 「〈琅〉を手中にすれば、西方の物産が手にはいります。玉や馬が入ってくるようになれば、たとえ一時、財政が苦しくなっても、〈征〉なら数年で立ち直れるはずです」  その間、庶民がどれだけの負担を強いられるかは、承知の上だ。 (私は十年後、二十年後の〈征〉のために働いているのだ)  指摘されれば、そう答えて胸を張っただろうが、あいにく彼に論争を挑んでくる廷臣は、少なくとも〈征〉にはもういなかった。それが、伯要の弁舌に対抗できる者がないという意味には、必ずしもつながらないことに、伯要自身、気がついていなかった。故に、 「出立にあたり、新都の防衛には仇士玉《きゅうしぎょく》を充てる」  魚支吾に告げられた時、全身が震えるほどおどろいた。 「——なんと、仰せになりました」 「仇士玉だ。見知っているはずだが」  名には聞き覚えがあった。顔かたちも知っている。〈征〉にはめずらしく、低い門地にもかかわらず廷臣となった武人だ。魚支吾の側室が、自分と我が子の勢力を確固たるものにするため、優秀な者を抜擢《ばってき》したのである。もっとも、太子の佩はその側室の所生ではなく、かの女の役には結局立たなかったのだが。  仇士玉は、若いだけに融通がきかず、漆離伯要を口舌《こうぜつ》の徒と以前から嫌っていたはずだ。伯要も、学問のない武人あがりを見下す傾向にあるから、お互いさまといえばそれまでだが、決して仲がよいといえない仇士玉に新都の守備を任せよとは、伯要には承服しかねる命令だった。 「お断り、いたします」  伯要は、ことさら声を大きくして告げた。 「仇士玉どのは、新都のなんたるかをご存知ありません。あれは、私が英知のすべてを絞って築きあげた、攻めるに堅く守るに易《やす》い名城です。長泉《ちょうせん》の野に在って、東は巨鹿関《ころくかん》を押さえ、南に対しては〈衛〉をにらみ——」 「その〈衛〉が問題なのだ」  伯要の長広舌を、いらいらと魚支吾はさえぎった。 「〈衛〉を押さえに出ながら、まんまと無影めにいいこめられたのは、そちではなかったか」 「それは——」  さすがの伯要も、これは雲行きが違うと感じ始めた。この前、魚支吾と直接|逢《あ》ったのは、半年ほど前になる。その時、魚支吾は伯要の失敗を許し、新都の建設に関しても、基本的には伯要が指揮をとることを許したのだ。もっとも、監査が時おりはいることにはなったが、うしろめたいことは何もないつもりだったから、いっこうに気にかけなかった。 (いったい、何が機嫌を損じた?)  ここのところ、言動には注意していたし、命じられた戦の準備も、これ以上ないというほどにしてのけた。常人の二倍の働きをしたと自負しているが、それすら極力、表に出さないように心がけてきた。いまさら、忌避《きひ》されるいわれはないはずだ。 「悪くとるな」  伯要の顔色があきらかに変わったのを見て、魚支吾の口調はわずかだが和《やわ》らいだ。 「済んだことを咎《とが》めだてているのではない。その償いは、この度《たび》の準備で済んだ。ただ、そちには、謀士として孤の側にいてもらおうというのだ。仇士玉も新都の重要さは、十分に承知しておる。ことに、地理の重要性はな」 「では、陛下もお考えでしたか。〈琅〉軍の一部が、百花谷関《ひゃくかこくかん》から巨鹿関《ころくかん》へ抜けてくる、と」 「当然ではないか。わが国の後背を衝く絶好の道だ」  冷笑が、魚支吾の顔に浮かんだ。伯要は、首をかしげる。 「たしかに、新都は巨鹿関を出て、背後に回ろうとする敵を封じるための城。ですが、その意味も堅牢《けんろう》さも、〈琅〉は十分に承知しているはずです。それでなくとも数の少ない軍を割いて、新都を攻めようなどと考えるでしょうか」 「来るだろう。いや、〈琅〉が来なくともよい。だが、〈衛〉の耿無影はかならず出てくる」  無影の名を聞いて、伯要の顔がかすかにゆがんだ。 「何度もいうが、そちを咎めているのではない。ただ、一度相対した相手がそちでは、無影めによけいな勢いをつけさせてしまう」  なめてかかられるだろうと、言外にいわれて、さらに伯要の顔に陰がさした。 「仇士玉はまだ若く、名声もあまりない。それだけに、かえって無影めは用心するだろう。あれは小心者だが、この場合はそれが助かる。子玉の実力は、そちも知っておろう。まして、野戦ならともかく、城に籠《こも》って守りきればよいのだ。難しいことではないし、新都の民や建物に被害が及ぶことも少なかろう。不安ならば、この場に呼んで、孤の口から言い聞かせよう」 「いえ、そこまでは」  伯要も、遠慮ということばぐらいは知っている。魚支吾に対して主張すべきことと、引くべき限界も心得ている。魚支吾は決して、無限大に寛容な君主ではない。寛容に思われたいだけだ。 「よろしいでしょう。仇将軍にお預けいたします。ですが、〈衛〉が出てきましょうか」 「見ているがよい。孤が動いたと聞くや、あの蛇は、すぐさま這《は》い出してくる。孤と正面きって戦う度胸もないくせにな」  吐き出すように口にしたことばは、そのまま魚支吾のいらだちであり、気力の弱さだった。通常ならば、相手を事実以下におとしめるような真似はしない彼が、〈衛〉の国主を悪しざまにののしったことに気づいて、漆離伯要は内心で、 (これはまずい)  とつぶやいた。 (これは、側についていた方がよさそうだ。この調子では、戦の采配《さいはい》がふるえるかもおぼつかない。〈琅〉も死にもの狂いでかかってくるのだ、陛下の判断の失敗が、勝敗を左右することになっては、〈征〉という国自体がゆるぎかねない)  万が一の場合には、自分が判断を下し、軍を指揮できるような下工作をしておかなければ、とんでもないことになる。最低限、初めて戦に出る魚佩の安全を確保しておかなければ。むろん、少年自身が乱戦の中に身を置く可能性は皆無に近いだろうが、用心に越したことはない。それには、彼自身がかたわらに在って、健康状態から戦の趨勢《すうせい》までを把握しておく必要がある。 「わかりました。新都の防備をさらに固めるよう、命じておきましょう。仇将軍が守りやすいように、新都に住まう者らにも、徹底させて——」 「それは、子玉自身がやる。そちは、早々に〈容〉へ行け」 「は」 「早い方がよい。三日以内に、孤も出立する」 「は、では、明日にでも」  頭を下げた漆離伯要は、実際に次の日の夕刻、臨城の城門を出た。  その間に、だれにも内密で新都の太学に人を遣って、仇士玉の横暴を牽制《けんせい》する策をさずけ、魚佩の側近に接触をとり、自分の出発の支度までやってのけたのだ。  魚支吾とその親衛兵をふくむ〈征〉軍が、国都・臨城を発ったのは、それから十日のちのことだった。  かつて〈容〉との国境だった望津《ぼうしん》の渡しは、先年、激戦の地となった。〈容〉国内で段大牙と淑夜の理解者だった夏子華《かしか》が、ここで壮絶な最期を遂《と》げたのだが、魚支吾の記憶にはその名はない。そして、激戦の痕跡も彼の目に入らなかった。  本来なら、行軍の間、戦車上に偉容を見せつけているべき〈征〉国王は、壁と屋根のある温涼車《おんりょうしゃ》に乗ってこの渡しを越えたのだ。 「——孛星《はいせい》が現れました」  耿無影《こうむえい》のもとに、冉神通《ぜんしんつう》がそのしわだらけの顔を見せたのは、ちょうど魚支吾が望津を越えた日の夕刻だった。ほとんど単身に近い状態で〈鄒《すう》〉に移った無影を、冉神通が国都から追ってきたのだ。  勝手に国内を移動した罪は、問わなかったが、 「なんといった」  端正な容貌に、露骨に忌避《きひ》の表情を見せながら、無影は訊きかえしていた。 「孛星でございます。一年前、空に輝いた妖星がまたぞろ、戻ってまいりました」 「それが、どうかしたのか」  手柄顔に声をはずませて告げる冉神通に、冷淡な疑問がぶつけられた。 「どうか、ではございませぬ。あれは、北天の帝座を侵す星。つまり、この中原を統一する者が現れたということ。陛下、今こそ——」 「今こそ、なんだ。〈征〉を攻めよという気か」 「新都の守将は、仇士玉。まだ若僧でございます。陛下の威光をもってすれば、ひとひねり。新都が陥ちれば、臨城までは一気でございます。国都を奪われた魚支吾の面目は、丸つぶれ——」 「そして、とってかえしてきた十万の軍勢と、異国の地で戦うのか」  冷静な声が、老人の上目がちな表情の正面につきつけられる。 「戦には時と、地の利が必要だ。みすみす、負ける戦を、星を利用した妖言で起こせというか」 「しかし、陛下はそのおつもりで〈鄒〉までおでましになったのでは」 「躬《み》の心中ひとつ読めない者が、どうして天下の趨勢を予言するのだ。下がるがよい。ついでに瀘丘《ろきゅう》へもどって、星でもながめているがよい」 「いえ、陛下。戦となれば、きっと儂《わし》の術が必要になるはず——」 「攻城に霧はいらぬ。みせかけの雷火も必要ない。要るのは、頑強な兵だけだ。そなたの術で、あの強固な羅城を破壊してみせるというなら、話は別だが」 「いえ、それは——」 「ならば、もどっておれ。瀘丘では、兵の出立の準備に商癸父がかかりきりになっている。少しでも役にたつ気があるなら、戻って商癸父《しょうきふ》を手伝ってやれ。名簿の照合ぐらいなら、その老体でもできよう」  かっと、老人の顔が紅潮したのを、無影は見ないふりをした。中原一の術者と自負している彼に、右筆以上の価値を認めないと、無影は宣言したに等しい。  冉神通が、この処遇を恨むことも予測がついた。この国を出ていくか——いや、それとも〈征〉か〈琅〉に走るか。 〈琅〉には、どうやら彼の弟弟子とやらいう方術士がいて、犬猿の仲というから、逃げるなら〈征〉だろう。  それもよい、と無影は思っている。妖言をふりまき、怪しげな術で人心をまどわすこの男を受け入れるようなら、魚支吾という男も、結局たいしたことはない。だが、おそらく必要な情報だけ聞き出して、叩きだすだろう。うまく逆鱗《げきりん》に触れてくれれば、処刑されることも有り得る。つまり、無影はわが手を汚さずに、冉神通を始末できるわけだ。  ついでに、偽の情報を冉神通につかませておけば、〈征〉を混乱させることまでできるだろう。  赤くなったあと、一瞬後には青くなった表情をそむけるように、冉神通は下がっていった。 「謀略とは、こういう風に仕掛けるものだ、漆離伯要。おのれが動くのではなく、他人を動かすのだ。それも本人に意識させないでな」  完全に老人が姿を消したのを確かめてから、無影は口の中でつぶやいた。その手の中には、しわだらけの帛布《きぬ》があった。黄ばんで、一部に土がこびりついているところから見て、泥の中にでも隠してあったのだろう。密書によく使われる方法だ。  その末尾に、「漆《しつ》」の一文字がはっきりと記されていた。 「まだ、〈征〉を奪うのは早い。魚支吾が力尽きてからだ」  いいながら、無影はゆっくりと立ち上がる。そのまま、裸足のままで院子《にわ》に降りると、暗くなりはじめた北天を見上げた。 「孛星、か」  無影は、天命など信じない。 〈衛〉を簒奪《さんだつ》した時の自身の非道さを考えれば、天があるなら天罰が下って当然だが、罰らしきものがあたる気配はないではないか。 「凶星とやら」  低く、無影は呼びかけた。 「おまえに力があるというなら、〈衛〉を滅ぼしてみろ。躬は、全力を挙げて逆らってやる」      (三)  大牙《たいが》は、暇をもてあましていた。  時間との勝負を口にする淑夜《しゅくや》たちにあおられるように、長距離を一気に駆け抜けて安邑《あんゆう》にたどりついたが、それから先、することがなかったのだ。  まず、今日明日にでも、といわれた〈征《せい》〉が動かなかった。〈容《よう》〉に兵が集まっている気配は察知できたが、だからといってこちらから、〈容〉との境まで出ていくわけにはいかない。 「おそらく、最終的にはまた、長塁《ちょうるい》のあたりで決着をつけることになるだろうな」  赤みのかかった豊かな髯《ひげ》に手をやりながら、いまや〈琅《ろう》〉王となった藺如白《りんじょはく》が、大牙に告げた。  大牙の方も、安邑に入ってすぐ髪を整え鬚《ひげ》もきれいに落として、戎《じゅう》族風の衣装も中原風に改めている。  ちなみに、このふたりも旧知の間がらである。大牙は〈魁《かい》〉宗室に近い〈奎《けい》〉の世子、如白は〈魁〉王の姪《めい》を嫂《あによめ》に持つ。〈魁〉の衷王《ちゅうおう》の姪の義弟として、如白は何度か義京《ぎきょう》へ使者にたったことがあり、大牙とも遠い縁戚として顔を合わせていたのだ。  それを考えれば、ふたりの間はまったく逆転したわけではない。しかも如白は大牙を丁重に出迎え、住まいの手配を整えさせて、みずから苳児《とうじ》を送ってきた。大牙もすなおに臣下の礼を執って、かえって如白を恐縮させた。 「いや、これは——。答礼のしようがない。そんな礼は無用に願いたい。少なくとも、余人のないところでは」 「あいにく、不器用で使い分けができませんので」  と、大牙は苦笑した。 「人目があろうとなかろうと、同様にしておいた方が無難です。でないと、いつ不敬の罪を犯すかわかりません」 「困ったな。こんなことなら、王号など称するのではなかった。儂《わし》には似合わぬと、さんざんいったのだが、格好がつかないと、皆に押し切られた」 「これでよいのですよ。そのうちに慣れます」  と、つい一年前まで王と称していた青年は笑った。 「陛下には、助命していただいた上に、登用しようとの仰せ。姪女《めい》を長らく養育していただいたことといい、なんと礼を述べてよいやらわかりません。この上は、犬馬の労も厭《いと》わぬ覚悟。どのようにでもお使いください」  ことさら儀式ばったいいようをして、頭を下げ、苳児にも礼をするよううながす大牙に、如白は辟易《へきえき》したようすで、 「いや、しばらくの間は疲れを癒《いや》して、のんびりとしていただこう。旧臣の面々とも、まだ顔を合わせておらぬのだろう。苳児どのも、寂しい思いをしておられたのだ。その埋め合せを、存分にしておかれるがよい」  言外に、また離別の時が来るからと匂わせて、如白は数人の供といっしょに馬でもどっていった。  以後、彼に命令らしきものは、いっさい下らなかった。生活にも、制限はつかず、どこへ行くのもだれに会うのも自儘《じまま》だった。〈奎〉伯国に代々仕えてきた冀小狛《きしょうはく》ら、旧臣たちも数人、警護の目的で同じ邸内に住むことを許された。監視がつく気配もない。  あまりの鷹揚《おうよう》さにさすがに気味悪くなり、 「いいのか、ほんとうに」  やってきた淑夜に、訊ねたほどだ。 「大牙さま——いえ、大牙らしくないですよ。今さら、監視だの制限だのをつけて、どうするんですか」  そんな無駄をするぐらいなら、一年前に殺されているはずだと、淑夜はいう。 「それに、陰謀を企むような人柄でないことは、陛下も羅旋《らせん》も承知していますから」 「どうせ、俺は単純だ。西の生活に、すぐに順応してしまうほどにな」  なかば冗談、なかば本気で、大牙は顔をしかめた。その視線の先には、淑夜の乗ってきた馬に乗ろうとしている苳児と、それを助けている茱萸《しゅゆ》と玻理《はり》がいた。  茱萸は戎族の血をひく少女で、〈衛〉に来たものの周囲になじめず、尤《ゆう》家の暁華《ぎょうか》を通じて苳児のもとに来た。苳児の侍女に信頼のおける者をと、大牙が頼んだためだ。侍女というよりは、護衛役だった。苳児に馬の乗り方を教え、〈容〉が滅びる時に苳児を守って脱出したのは、この戎族の少女だったのだ。  戎族の生活に近い〈琅〉は、茱萸にとってはいごこちがよかったらしい。彼女らしい一途《いちず》な忠誠心もあって、変わらず苳児のかたわらにあって、この一年を過ごしていた。淑夜と茱萸がいたから、大牙はこの唯一の血縁の、幼い姪女の身の上を思いわずらわずにすんだ。  苳児が玻理にすぐになついたのも、茱萸のおかげだったかもしれない。少なくとも、彼女は戎族のことばや慣習、立ち居振舞にとまどわなかった。  冀小狛らが、玻理の存在そのものに困惑し、正面きってはいわないものの、忌避しているのとは好対照だった。  もっとも、苳児は時おり予言めいたことを口にするほど勘の鋭い少女である。直感で、玻理がどういう娘か、すぐに見抜いてしまったのかもしれない。 「叔母上さま」  と、紹介される前から、玻理をそう呼んだ。 「わたくしも、馬が好きです。もう、ひとりで乗れますのよ。そのうち、騎射を教えてくださいませ。わたくしも、物の役にたちたいのです」  そんなことを口にして、大牙を苦笑させたものだ。 「おまえが戦場に出るようになったら、〈琅〉も終わりだ」  大牙がからかうと、 「そうなったら、よけいに騎射の手腕は必要になるのではありませんの? わたくしも西で暮らすことになるのですもの」  わざととりすました表情で告げたもので、大牙はぎくりとした。  今、目の前で栗毛のおとなしそうな馬に乗ってはしゃぐ少女は、そんなことを忘れたような顔をしていたが、大牙は思い返して渋面を作った。 「どうなんだ——」 「なにが、ですか」 「いったい、どういうことになってるんだ。魚支吾《ぎょしご》の奴が動きだすまで、こちらも動けないことはわかっている。だが、勝てる算段はしているのか。おまえも、こんなところで遊んでいていいのか」 「私の策は、みんな羅旋に話してありますから」 「呑気《のんき》なものだ」 「一年前から、こうなることを見越して準備をしてきたんです。いまさら、動じたりはしませんよ。そういう大牙——だって、そう焦っているようには見えませんが」  大牙の敬称を取るのに、淑夜はひと苦労した。 「如白どの——いや、陛下のいうとおり、できるだけ長い間、苳児といてやりたい。俺が死んだら、苳児はひとりになる」 「不吉なことを」  とは、淑夜はいわなかった。 「わかっておいでですか」 「莫迦でもわかる。俺が呼び戻されて、こんな待遇を受けている理由は、ただ、〈奎〉の旧臣やほかの国主たちを手なずけるだけが目的じゃない。巨鹿関《ころくかん》だ」  淑夜は、無言でうなずいた。 「〈征〉は、望津《ぼうしん》を渡って〈容〉から攻めてくる。大軍で、一気に来るならそれしかない。巨鹿関から百花谷関《ひゃくかこくかん》に通じる道は、いくら自国が押さえているといっても、狭い。百花谷関を出たところで、むざむざ押さえこまれるような少人数を割《さ》いたところで、意味がない——と、魚支吾なら考えるだろう」 「数の優位で戦が決まると思っていますからね、〈征〉王は」 「数で決まるなら、俺は昔、巨鹿関で敗れていた」  あれは、淑夜と大牙と、そして羅旋が初めてともに戦った戦だった。 「〈征〉王の考えの方が本来は正しいんですよ。ただ、数が少ない我々としては、戦う前に敗れるわけにいかないだけです」 「それで、百花谷関から巨鹿関までの間は熟知している俺が、必要になったわけだ」 「そういうことです」 「当然、巨鹿関は、〈征〉の守備兵が固めているだろうな」 「救いは、外からではなく、内側から攻めるという点です」 「それにしても、難攻だぞ、あの関は。巨鹿関を抜いても、目の前に、今は新都がある。以前のように、〈征〉まで一直線というわけにはいかない」  当然、激戦続きになる。  これが、〈琅〉の主力軍五万でかかるのなら、なんとか方策も、勝ち目もあるだろう。だが、主力は〈征〉の大軍を迎え討たなければならない。大牙は最初から、少数精鋭の別動隊と決まっている。  奪われた故国を〈征〉から奪い返せるのだから、兵の士気は高いだろうが、それだけ危険も高い。はたして、何人生き残って故国の土を踏むことができるだろう。 「それは謀士としての腕ですから、責任は感じていますよ」  淑夜が笑ったのは、目の前で馬に乗った苳児が手を振ったからだ。  大牙のために用意された住まいには、少し広い中庭があった。もとは、東方と取引のある商人の屋敷で、荷下ろしや荷造りのために使っていた場所だ。  そこで、少女たちはそれぞれの馬に乗り、短い距離を争っていたのだ。茱萸が遅れたのは、苳児への遠慮であり、玻理がさらに遅れたのは、大人の配慮である。 「責任を感じるなら、今、こんなところにいていいのか。羅旋は軍議中のはずだろう」 「心配いりません。私がいなくても、羅旋のそばには、壮棄才《そうきさい》が控えていますから」  知り合う前から羅旋のそばにいた、無口な謀士の名を口にした。 「おまえ、あの男と仲が悪かったんじゃなかったか」 「悪いわけじゃありません。よくもありませんが、信頼はできます」 「——ふん、そんなものか。そういえば、淑夜、超光《ちょうこう》はどうした」  淑夜の乗馬は美しい騅《あしげ》で、西から良馬を多く入れている〈琅〉でも、目立つ存在だった。「超光」という名は、もとの持ち主の羅旋がつけたものだ。もう一頭、追風《ついふう》という羅旋の愛馬がいたが、これは〈魁〉が滅んだ時の戦で負傷したため、羅旋自身が処分した。  それがあまりにも冷酷に見えたために、当時、淑夜は羅旋のやり方を激しく非難したものだ。だが、今ならば理解できる。  走れなくなった馬は、死ぬしかないのだ。背後に敵の迫っていた状況では、連れていくわけにいかなかったし、置き去りにすればほかの肉食獣に食われるのがおちだ。それなら、せめて苦しまないよう、ひと思いに息の根を断ってやるのが主としての情けだろう。  今、淑夜が同じ立場になったとしたら、きっと同じことをするだろう。ためらわず、超光を殺すだろう。そして、誰もいないところで嘆くのだ。  だが、今はまだ、超光は健在である。 「置いてきました。人に貸したもので」 「超光を貸した?」  美しいが、超光は癇《かん》の強い馬で、めったなことでは主以外の他人をよせつけない。ただ人語を解するほど利口な馬で、いったん受け入れた相手ならば、乗り手への配慮までしてくれる。もとの持ち主の羅旋が、この馬を淑夜に譲ったのは、脚の悪い淑夜でも超光なら乗りこなせる——むしろ、超光が淑夜を助けるだろうと考えたからだ。  だから、淑夜も超光を大切にしている。世話も、他人の手を借りずにひとりでやる。その淑夜が超光を貸すのは、よほどの事態だと思わざるを得ない。 「いったい、だれに。いや、そもそも超光を必要とする人間が〈琅〉にいるのか。妙な奴に貸すぐらいなら——」 「俺によこせ、ですか。だめですよ。超光より若い馬を手に入れられたくせに」  軽くいなした淑夜の視線が、ふと動くのに大牙も気づいた。 「なに、だれか来たのか——」  入口の方から、人のざわめきと馬の蹄《ひづめ》の音が聞こえてきたかと思うと、白い馬がゆるやかにはいってきた。馬は、改めて見るまでもなく超光とすぐわかった。だが、馬上の人の名を大牙が口にするまでには、長い時間が必要だった。 「大牙さま、わたくしをお忘れになられましたか」 「忘れる——ものか」  きゃしゃな女性だった。まだ少女と呼んでいい、ほっそりとしたおもざしに見憶えがあった。ただ、大牙の知っている彼女は、もっとひっそりとした——まるで、蕾《つぼみ》をつけたまま、日陰で咲くことなく枯れようとしている花のようだった。  白い花のような印象は、今も変わらない。大輪の花ではなく、小さな野の花のひそやかさにも変化はない。だが、この花はたしかに満開の時を迎えている。しかも、陽光の真下で、まっすぐに天を仰いでいるのだ。  上衣はさすがに裾丈の長いものをまとっているが、裾には深い切れ込みがはいり、下に細い袴《こ》をつけるという、りりしい姿である。 「——玉公主《ぎょくこうしゅ》」 「ご無事でのお帰り、心よりお祝い申しあげます。ほんとうによかった」  超光からひらりと地上に降りたって、玉公主とよばれた面立ちが、微笑にほころんだ。先代〈琅〉公の妹、そして〈魁〉の王太孫妃だった、藺揺珠《りんようしゅ》だった。 「揺珠どのも」  それだけをいうのが、やっとだった。  大牙は、昨年、〈琅〉に降伏したあと、その場からすぐに左車《さしゃ》に連れられて、西にむかっている。安邑は人の出入りの多い城市であり、そこに滞在している間に〈征〉や〈衛〉の息のかかった者らが何か行動を起こさないでもない。羅旋たちはそれを避けたのだが、大牙にしても、よけいな人間に敗残の身を見られるのは好まなかったからだ。  揺珠が、大牙の身を案じていたことは、疑う余地はない。  最後の〈魁〉王・衷王に、孫嫁として仕えていた離宮・寿夢宮《じゅぼうきゅう》での寂しい日々には、時おり、隣国の〈奎〉伯の代理としてやってくる大牙や、その兄の段士羽《だんしう》の陽気さが救いだったからだ。兄とも思い、頼りにもしていた。 「でも、わたくしの兄も士羽さまも、お亡くなりになってしまって。昨年の戦の時は、ほんとうにつらい思いをしました。もう、これ以上、わたくしの兄上たちの身に何かあったら、どうしようかと。でも、みんなご無事で、こうして大牙さまも戻ってこられて、ほんとうによかった」 「案じていただいて、ありがたかったが——。なんといったらいいのだ。揺珠どの、馬になど、いつ。いったい、これは。その、どうしたと」  あまり驚いたのか、ことばにならない。 「揺珠どのが、まさか馬に。それに、外へ。いったい、何が起きたと」 「茱萸が教えたんですよ」  あまり滅裂なことばかり口ばしるのを見かねて、淑夜が口をはさんだ。揺珠は笑って大牙の次のことばをじっと待っているから、会話にならないのだ。 「正確にいうと、苳児さまが勧めたんです。馬ぐらい乗れなければ、と。殿方の帰りをじっと待っているだけでは、だめだと」 「おまえ、何を」  ちょうど馬から降りようとしていた苳児を、両手で助け降ろしてやりながら、大牙はまだ、めんくらった表情をしている。 「なにを、偉そうなことを。子供のくせに」 「でも、叔父上さま。わたくしが叔父上さまだけを頼みにしていて、〈容〉から自分で抜け出してこなかったら、わたくしは今ごろ、〈征〉の人質になっていましたわよ。婦《おんな》が殿方にばかり頼っていては、かえって殿方の足手まといになりはしませんか。ですから」 「それと、馬と何の関係がある」  いくら国都の城内だからといって、王の姪が、ひとりで供も連れず容顔《かお》も隠さず、馬で勝手に出歩いていいわけがない。だが、苳児は知らぬ顔で、 「だって、馬ならどこへでも、好きなところへ行けるではありませんか。車だと、人に頼んで支度してもらわなくてはなりませんし、ひとりでは扱えません。でも、馬なら婦でも乗れます。いざという時に、わたくしたちが安全なところへ落ちのびていられたら、安心ではありません、叔父上?」 「最初から、負けると決まったようなことをいうな」  大牙は露骨に顔をしかめた。まさか、十歳そこそこの姪にむかって、本気で怒ってみせるわけにもいかない。その間に、揺珠は玻理と初対面のあいさつをかわしていた。  ふたことみこと、細い声で揺珠が話しかけると、ふだん無口な玻理がぱっと笑った。  淑夜たちが会ってから、ずっと不安そうな影をひきずっていた彼女が、はじめて透きとおるような笑顔を見せて、かすかに笑い声をたてたようだ。  揺珠が、ふわりとふりかえって、 「——大牙さまが、こんないい方を夫人に娶《めと》られたと聞かれたら、士羽さまがどれほどお喜びになりましたでしょうね」  士羽の妻——苳児の母は〈奎〉伯家の臣の娘だったが、それほど身分の高い家ではなかったと聞いている。家柄などにこだわらなかった士羽なら、きっと戎族であろうと誰であろうと、大牙が妻を迎えたことを祝福してくれただろう。 『おまえなどより、よほど立派な将になりそうではないか。しっかりせぬと、皆、夫人の命令しか聞かなくなるぞ』  揺珠のことばの裏から、そんな声が聞こえたような気がして、大牙はほっと肩で息をついた。 「ほんとうに、そう思ってくれるか」 「思いますわ」 「感謝する」  揺珠は、まぶしそうに笑った。 「大切にしてさしあげてくださいね。士羽さまの分も、しあわせになってくださいまし。今度も、きっとご無事でおもどりになりますよう」 「その点は心配無用ですよ、揺珠さま。玻理どのは、大牙とともに戦に行くのですから」  口を出した淑夜に、大牙が激しく反応した。 「——おい、その件はまだ、俺は承知してないぞ!」 「私に文句をいっても、仕方ありませんよ。玻理どのはそのつもりだし、私たちは大牙が責任を持ってくれるなら、いっこうにかまいません。説得をするなら、ご自身でどうぞ。ご夫妻でとっくりと話しあってください」  すました顔で告げると、超光の手綱をとった。 「揺珠さま、おいでになったばかりで申しわけありませんが、私はそろそろ戻ります。軍議の結果が出るころですから。いっしょにお戻りいただけると、陛下にも申し訳がたつのですが」 「はい、そういたします」 「出立前に、もう一度、大牙とは改めて会う時間を作ります」 「ええ、お願いします。玻理さまとも、もっとお話をしたいのです」 「あたしも」  玻理が、短くうなずくと、 「揺珠さま、また、お館へうかがってもよろしいですわね」  苳児が割ってはいった。 「それより、叔父上さまが戦においでになっている間、館においでなさいまし、苳児さま。この間までとおなじように、暮らせばよいのですわ。その方が、叔父上さまもご安心でしょうし」 「いや、これ以上迷惑をかけるのは——」  と、大牙が辞退しかけた。  今までは、事情が事情だったから仕方がないが、大牙が〈琅〉に臣従を誓ったとなるとわけが違ってくる。臣下が王に家族を預け、面倒をみさせるわけにはいかないではないか。  だが、少女たちはさっぱり聞いていなかった。なにを持っていきますわ、今度は何をして遊びましょうと、緊張感のないことおびただしい。  どうやら、ここでは男の意見など通らないのを見てとって、ついに大牙もさじを投げた。 「勝手にしろ」 「では、その時になったら迎えをよこしますから」  にこりと笑って、揺珠はふたたび馬上の人となった。彼女が乗るまで超光の手綱を押さえていた淑夜も、軽々と栗毛の馬に乗った。歩く時は、かすかに脚をひきずる彼だが、馬に関しては、戎族にもひけをとらないほど、身のこなしが鋭くなった。超光でなくとも、並の馬なら平気で乗りこなしてしまう。  淑夜の方が少し先にたって戻っていく後ろ姿を見ながら、 「あいつ——」  大牙は、ちいさくつぶやいた。 「何?」  玻理が、さらにちいさな声で訊ねる。 「淑夜だ。いや、あれは揺珠どのの方か。恋をしているのは」 「あの、姫さまが?」  自分の身の上と重ねあわせて、大牙は小さく嘆息した。 「つらい思いをすることにならなければいいが」  王の座から降りたことで、大牙は玻理という女を手に入れた。  左車に連れられて、ほとんど単身で当鑼《とうら》の野営地についた時、最初にふたりの前に立ちふさがったのが、やはり玻理だった。紅い衣装に、つややかな髪をゆるやかに編みおろした彼女の、そのまっすぐな視線に大牙は吸い込まれるような気がした。意気消沈していないといったら虚言になる状況である。実際、羅旋たちには大見得をきったものの、西で生き抜く自信は半分ほどだった。  玻理の視線は、その大牙をふたたび奮いたたせてくれたのだ。その気になれば、人間はどこでも、どんなことをしても生きていける、と。  玻理はその時から、大牙の生きる気力の象徴となった。王だとか伯だとか、身分や意地を捨てていなければ、めぐりあうこともなかっただろう。たとえ会うことがあっても、互いの身分や状況、生活環境の差などが邪魔をしたにちがいない。  玻理が、すこし考え深い表情で、 「大牙、後悔しているでしょう」  と、訊いた時、きっぱりと首を横にふったのは、彼の真情である。  玻理を妻にしたことは、後悔などしていない。問題があるとすれば、大牙は男として玻理を守らねばならないと堅く決心しているのに、玻理は守られようとしないことぐらいだ。彼女は、自身を自分で守れる上に、西では大牙を守りさえしてきたのだ。いまさら、大牙が戦に出るなとか婦は後方で待っているものだとか、言い聞かせても無駄というものだった。  しかも、玻理はなおも深いまなざしで、 「でも、昔、あの姫さまが好きだったでしょう?」  指摘されては、反論のしようもない。 「昔のことだ。今はちがう。それでは、いけないか」  正直に告げると、 「怒っているわけじゃない」  安心しろと、玻理は笑った。 「ただ、あの姫さまをかわいそうだと思うのは、まちがっているわ」 「おまえは、知らんのだ。人を好きになっても、口に出せない立場に揺珠どのはある。好きに嫁ぐことなど、決して許されないんだぞ。それでも、哀れでないとおまえはいうのか」 「知らないのは、大牙の方。あの姫さまはきっと、思いどおりにするわ」 「周囲が許さんだろうなあ。そもそも、揺珠どのは幼い時から〈魁〉の王宮の中で、厳格に育てられた人だ。おまえのようなわけにはいかない」 「だったら、賭けようか」  玻理は、悪戯っぽく笑った。 「あたしが勝ったら、あたしは好きなように大牙についていく。大牙が勝ったら、あたしはいうとおりにする」 「戦より前に出る結果ではないじゃないか。そんな賭けができるか」  いい捨てながらも、玻理の肩を引きよせる大牙だった。苳児と茱萸が、とっくの昔に遊びにいってしまったことは、先に確かめた上でのことというのは、いうまでもなかった。  大牙の無聊《ぶりょう》とは対照的に、〈琅〉王の御前での軍議は紛糾していた。  といっても、いまさら方針が変わるわけではない。〈征〉の大軍は、〈琅〉が全力を挙げても、支えきれるかどうかわからない。義京を通る、いわば搦《から》め手の奇襲軍は、どうしても必要だった。その別動軍の主体には、〈奎〉の兵たちを充てることも、その指揮を大牙がとることも、すでに決定したことだ。  ただ、別動軍の構成は大牙たちだけで十分だという意見と、他の者もつけるべきだという主張が、ぶつかったのだ。 「これ以上、義京まわりに兵は割《さ》けないぞ。いったい何が不満だ。大牙なら、あの周辺の地理もよく知っている。将としての才も、問題はない。それとも、奴の忠誠をいまごろになって疑うのなら、そうはっきりといってくれ」 「なにも、そこまでいってはいない。ことばが過ぎるぞ、赫《かく》羅旋」  方子蘇《ほうしそ》という将軍が、鋭角的な顔をしかめて押さえにかかった。  このふたりの他に、上座に、〈琅〉王と称したばかりの藺如白が半眼のまま座し、最年長の羊角《ようかく》将軍、廉亜武《れんあぶ》、それにもうひとり、方子蘇と同年代の漢《おとこ》が両側にいならんでいた。  この漢は藺家の端に連なる身で、名を藺厦《りんか》、通称を季子《きし》という。名のとおり、一族の同世代の中ではもっとも年少であるところからそう呼ばれているのだが、注目すべきなのは、彼が如白の父親の世代に属しているという点だった。  つまり中原風のいいかたをすれば、藺季子は如白の年下の叔父にあたるわけだ。実際には数代前に別れた分家の、そのまた分家に生まれた末子で、血のつながりだけをいえば、非常に薄い。〈魁〉王家によってかすかな血縁がある大牙と揺珠の方が、よほど近い縁戚《えんせき》といえるほどだ。  ただ、上の世代の者の意見には敬意をはらうのは、当然の慣習であり、如白も敢えてそれに逆らう気もなかった。上の世代で現在生存しているのが、藺季子ひとりということもあり、王号を称する際に五人の国相の中に加えられたのだった。季子もまた、おのれがとびぬけた才能を持たないことをよく承知しており、 「私は、右筆《ゆうひつ》のようなつもりで同席させていただきましょう」  そういって、国相の役目を引き受けたのだ。  特異な才能はないが、藺季子はよい意味でも悪い意味でも常識のある人間だった。議論が過ぎて座が荒れた時になど、彼のおだやかな意見で、沈静化することがある。  この時も、口を開いたのは藺季子だった。 「方将軍、赫将軍も。戦をする相手が違いますぞ」  ひとこと、彼がおだやかな口調でことばをはさんだだけで、怒鳴り声にまで高まっていた方子蘇の声が、すこし落ち着いた。羅旋も、わずかに顔をそらして、ひと息いれた。 「とにかく」  口論を再開したのは、羅旋の方からだ。 「絶対的に兵が少ないのだ。やっとかき集めた人間を信じられないのなら、この戦は、最初から負けだ」 「信じていないのではないと、何度いったらわかる。その兵力で、百花谷関はともかく、巨鹿関は無理だ。たとえ抜けたところで、新都で阻まれるのが落ちだといっているのだ。しかも、〈奎〉の連中は戦車だろう」 〈琅〉にも、戦車はある。というより、主力軍もまだ、戦車が主体なのだ。だが、騎馬軍の整備がもっとも早く進んでいるのも〈琅〉だった。  ひと口に馬といっても、戦車用と騎馬用では訓練の仕方からちがう。騎馬の機動性が、ここ数年の戦で注目されはじめてはいるが、今まで戦車をひいていた馬にいきなり乗るわけにはいかない。その点、〈琅〉は有利だった。戎族から、乗馬用の馬を手にいれられた上に、その気になれば東への供給を止めることもできたからだ。  馬を飼い、乗る技倆《ぎりょう》に付属して、鞍《くら》や手綱《たづな》、それに最近改良されたばかりの鐙《あぶみ》を作る技術も、〈琅〉は持っていた。さらに、身分の確立した東の諸国とちがって、卿大夫《けいたいふ》といっても新興の家が多い〈琅〉では、騎手のなり手も多かった。東の国、ことに〈征〉あたりでは、馬に乗るのは戎族の真似でいやしいことだという風潮が今でも強く、騎馬兵は皆無だった。 〈魁〉の正統をひきつぐと称していた〈奎〉の旧臣たちも、頑迷《がんめい》という点では〈征〉に似ていたかもしれない。冀小狛将軍あたりは、乗馬を覚えるよう勧められて、 「——この歳でいまさら」  と、婉曲《えんきょく》に拒否をしたという。  旧主である大牙が馬に乗って安邑までもどってきた時も、複雑な顔をした。無事だったのはうれしいが、戎族の風に染まって堕落したのは喜べないといったところだろう。  戦車が役に立たないというのではない。繰り返すが、〈琅〉軍も主力は戦車で構成されている。ただ、必要とあれば、大多数の人間がすぐに馬に乗りかえられるだろう。攻めるにしても退くにしても、馬の速さは大きな武器だった。  兵を割いて義京を迂回《うかい》させるのは、ただ、間道をとるというだけではない。できるだけ早く敵の背後に回りこみ、前線を混乱させる役目があるのだ。迂回路はこの際、読まれている。となると、時間だけが勝負だ。相手が予想しきれないほどの速さで、目の前に出現してみせれば、勝機も生まれるだろう。  だが、戦車が主体の旧〈奎〉軍では、その速度が期待できない。  方子蘇も、ただやみくもに反対しているのではないのだ。戦車が主体の〈奎〉軍より、羅旋か自分の率いる、騎馬兵のみの軍の方を迂回させるべきだというのが、彼の持論だった。  羅旋も負けてはいない。 「戦車の速さの点なら、少しは軽減できる」 「員数を減らすか」  車に乗る甲士《こうし》はふつう、三人である。御者と弓を持つ右士《うし》、そして戈《ほこ》を持ち敵の戦車の甲士を叩き落とす役目の左士《さし》。  そのうち、右士か左士を省けば、それだけ戦車の速度もあがるという道理だ。どちらにしても、長距離戦用の右士と接近戦用の左士が、同時に必要になる場合はごくわずかだ。兼用させてしまえばいいことだし、それなら〈奎〉の旧臣たちでも、新たに訓練するほどのことはない。 「どちらにしても、飲まず食わずでは巨鹿関まで行けるはずがない。今回は、行った先で食い物を調達するというわけにはいかんのだし、革車《かくしゃ》(輜重車《しちょうしゃ》)が必要だ」  ふつうの戦ならば、糧食のある程度は、いった先先の土地をあてにする。つまり、その土地の農民から買い上げるか、多くの場合は略奪するのだ。ただ、〈琅〉は原則として略奪を禁じている。しかも、義京周辺は旧〈奎〉の領地が含まれている。故国を奪回しにいく者らが、その土地の民に迷惑を及ぼすようでは、何のための戦かわからなくなってしまう。よって、迂回軍は糧食その他を、自軍で運んでいく必要があるのだった。 「革車を連れていては、騎馬軍でもそう速くは進めない。速度さえあげればいいというものではないし、どうせ、相手は万全の配備をして待ちかまえている。多少の速度の違いは、たいした問題ではない。主力軍との連繋時期の方が大切だ」  負けるどころか、羅旋の返答はよどみがなかった。  ここに集まっているのは、老人の羊角以外は皆、鍛えぬき風格を漂わせている武人ばかりである。いや、羊角も髪と髯《ひげ》が白いだけで、体格は決してひけをとっていない。だが、その中にあっても、羅旋はひときわ目立った。体格のせいばかりではない。髪をきちんと結い上げ、口鬚を整えていると、生まれながらにこういう場に親しんでいたような、迫力があった。  方子蘇も、 「それは、わかっている。だが——」  圧倒されたか、次第に声音が低くなってきた。 「ほんとうに、巨鹿関を落とせるのか」 「策は、ある」 「ほう、どんな」 「今はいえない。たとえ味方でもだ」  かっと反論しかける方子蘇をさえぎるように、羅旋は早口で続けた。 「ただ、信じてほしい。段大牙は巨鹿関を守っていた〈奎〉の人間だ。実際に、巨鹿関で戦い、勝った経験もある。それだけに、あの関の欠陥もよく知っている」 「よかろう、それは良しとしよう。だが、新都の件はどうする」 「新都の守将が交替するという件は、皆の耳にもはいっているはずだ」 「文弱の漆離伯要《しつりはくよう》から、武人の仇士玉《きゅうしぎょく》に替わったということか。よけい、状況が悪くなっただけではないか」 「仇士玉は、戦には慣れていない」 「と、侮《あなど》った奴を、痛い目にあわそうという魂胆だぞ、魚支吾は」 「剣を持ち馬に乗るだけが、戦ではない」  にやりと、羅旋が片頬だけで笑った。 「まして、相手があの耿無影《こうむえい》ではな」 「どうして、ここに〈衛〉の名が出てくる」  と、反射的に方子蘇は訊ねたが、すぐに何かに思いあたったように、上座の如白を見た。 「陛下、まさか、〈衛〉と取引を」  一座の他の四組、八個の眼がいっせいに彼らの王の顔をうかがう。 「いや、まだ、申し入れたわけではない。ただ、うまく動かす方法がないものかと、さぐっているところだ」  如白の茶色い髪は、戎族の血が流れていることを表している。彼の父も生母も黒髪に黒い眼だったが、どちらか——おそらく双方の先祖に戎族が何人かおり、先祖返りを起こしたのだろう。その容貌《ようぼう》故に不遇だった時代もあるが、恨むことも拗《す》ねることもなく、謙虚で誠実な人柄は、先代の国主・藺孟琥《りんもうこ》からも深く信頼されていた。国主の位の継承のおりには、異母兄たちと争わなければならなかったが、勝利したあとの処置は穏便すぎるほどだった。  羅旋や羊角をはじめ、個性の強い臣下が集まっているせいで、いまひとつ影が薄いようにも、弱腰のようにも思われている彼だが、すくなくとも五人の国相たちは、如白の命令ならば、自分の意見はさておいて従うだろう。彼が、これまで決して、無理な命令を押しつけたことがなかったからだ。 「〈衛〉と取引をするつもりはない。〈征〉との戦を凌《しの》げれば、次に〈衛〉との関係が懸案になってくるはずだ。のちのち、つけ込まれるような事態は、極力避けたい」 「といって、では、どうやって新都に耿無影をぶつけるおつもりじゃ」  代表して、羊角がゆったりと訊ねた。 「耿無影は知恵者だ。この中原で、おのれほど知恵のある者はいないと思っているだろう。そこが狙《ねら》い目だ」 「さて、儂らにわかるように話してくださいませぬかな」  食い下がる羊角に、如白は軽く笑って、 「とりあえず、〈衛〉に急使を派遣する」 「やはり、取引をなさるのではないか」 「まあ、最後まで聞け。手を結んで、ともに新都を攻めてくれるよう頼んだところで、〈衛〉は承知するまい。攻めようと思えば、自力で十分、攻めとれるのだからな。だが、断りはするが、あの耿無影が新都を手に入れる絶好の機会を見逃すと思うか」 「それは、そうだ。ですが、そんな隙《すき》が」 「隙は作る。仇士玉を新都からおびきだせばよい。がらあきになった新都を目の前にして、耿無影が黙っていられるかどうか」  如白が、めずらしく含み笑いをもらした。王などという地位にふさわしくなく陽に灼《や》けた面に、おだやかな皺が現れてすぐに消えた。 「いや、こういう言い方は、気の毒だな。私が同じ立場でも、我慢はできないだろう。耿無影のせいではない」  人の気持ちを、わが事にひきつけて考える癖が、如白にはあった。それが故に、思い切った処断もできない点を、如白の欠点と見る者も多かったが、今のところ、悪い方には作用していない。 「しかし——」  と、口をはさんだ方子蘇の声にも、不審の色は含まれていても、不満はなかった。 「どうやって、仇士玉をおびきだします」 「それは簡単だ」  答えたのは、羅旋である。 「巨鹿関を奪ったあと、そこから動かなければいい」  え——? という表情が、如白以外の者の面に一斉に浮かび上がった。ついで、 「あ——」  鋭く叫んで膝《ひざ》をたたいたのは、それまで無言だった廉亜武である。背丈も容姿も十人並みで平凡を絵に描いたような廉亜武は、文才も軍才も飛び抜けているわけではない。ただ、他人の意見を理解するのは、一同の中でもっとも早かった。 「なるほど、仇士玉は若いだけに、功を焦っている。そこが、つけ目か」 「巨鹿関に大牙が居座れば、そこで力尽きているのかと思うだろう。大牙をつぶし、巨鹿関を奪い返せば、功績は抜群のものとなる。なに、巨鹿関は新都の目と鼻の先。たとえ、耿無影が襲ってきても、すぐにとって返せる——と、思ってくれるとありがたいんだが。本音をいえば、うまくいくかどうかは、五分と五分だ」 「なに、動かなければ誘いをかけるなり、挑発するなり、方法はあるでしょう。仇士玉本人に関しては、私にも知識はないが、新都の建設を任されていた漆離伯要との間は、必ずしもよくないと聞きます。そのあたりの対抗心にうまく火をつければ、七分三分で、おびきだせましょう」  廉亜武は〈征〉の、士大夫の家の出身である。さほど高い家柄ではなかったから、むこうは憶えていないだろうが、魚支吾とともに学問をおさめたという経歴もある。〈征〉の事情や人物には詳しかった。  羅旋も、そのとおりという風にうなずいて、 「新都を〈衛〉に取らせてしまえば、あとは段大牙に任せればいい。あれで、あの漢は戦巧者《いくさごうしゃ》だ。新都をとった耿無影が、さらに大牙を攻めるとは考えにくいし、〈征〉に侵入するぐらいまではできるだろう。そこまででいい。無理に勝つ必要はない。要するに、後背を衝けば魚支吾も兵を退《ひ》くだろう」 「この戦、〈征〉に勝つ必要はないのだ。負けなければいい。〈征〉が兵を退いてくれれば、我らの勝ちなのだ」  如白が、噛《か》んでふくめるようにくりかえす。一同、くちびるをひき結んでうなずいたのは、もう何度も言い聞かされてきた台詞《せりふ》だったからだ。だが、聞き飽きた風は、彼らにはない。眼を輝かせ、真摯《しんし》な表情で主と仰ぐ人物を見た。  如白も、満足そうにうなずいた。 「——問題があるとすれば、大牙がかけひきをやっている間、我々主力が、どこまで持ちこたえられるか、だな」  意気込みに水を差すような台詞は、羅旋の口から出たものだが、 「なに、それぐらいは、保つだろうよ。連絡さえ、密にしてくれるならの」  羊角が白い髪と髯を揺らしながら、軽く請けあってみせた。 「なにしろ、巨鹿関は遠い。反撃に出るにしても退くにしても、この戦、時が勝敗の分かれ目となるぞ」  巨鹿関から安邑まで、馬で五日はかかる。それも、全速力で飲まず食わずという単純計算で、実際は不可能だ。馬が保たないし、人間もつぶれてしまう。道沿いに人馬を配置しても、やはり五日は無理だ。狼煙《のろし》という方法もあるが、これも人員の配置が必要で、ひとりでも兵士が惜しい時に、連絡のためだけに割く余裕は〈琅〉にはない。 「それは、工夫させている」 「また、五叟《ごそう》先生か。やれ、あのご仁《じん》の左道《さどう》ではなあ」  羊角の詠嘆《えいたん》に、軽い笑いが起こった。  五叟先生、本名を莫窮奇《ばくきゅうき》という老人は、方術、しかも左道といわれる怪しげな術を使うとされている。本人は、口は悪いが決して悪人ではない。むしろ、己《おのれ》の術に不信を抱き否定するような言動がある。だから〈琅〉には、医師として仕えており、めったに術は使わない。使わないものだから腕が落ちるのだろうか、時折、占卜《せんぼく》などを頼んでも、みごとにはずすようになった。  羊角が嘆き皆が笑ったのは、その点をさしてのことだ。羅旋も笑ったが、この場の人間の中で、五叟の真意を知っている者は、羅旋ひとりだったにちがいない。 「最近、五叟先生には、なにやら鳥をたくさん身辺に集めているようだが、まさか、空を飛んで連絡をとるというのではないだろうの」  さらに羊角の口は遠慮がなかったが、羅旋は、 「今は、詳しいことはいえん。一両日中に目処《めど》はたてると、五叟はいっていた。あの爺《じい》さんは食えない奴だが、こういうことで約束をたがえたことは、今までで一度もない。今すこし、待ってもらいたい。今、俺がいえるのはこれだけだ」  と逃げた。羊角も、他の者も、 「——よかろう、任せよう」  それ以上の追及はせず、 「では、これで決したな」  笑いがおさまり、空気が柔らかくなったところで、そう如白が告げたが、特に異論も出なかった。  赤みがかった髯に手をあてて、如白はゆっくりと決断を下した。 「全員が顔をそろえての軍議は、これが最後となるだろう。意見がある者は、今のうちに申しでておくよう。なければ、各自、準備を。三日後に、莱陽《らいよう》の野に向けて出発する」 [#改ページ]  第三章————————覇道      (一)  曲邑《きょくゆう》という土地は、数年前、北方の諸国が緊急事態で会盟した土地である。段大牙《だんたいが》が当時握っていた〈魁《かい》〉の玉璽《ぎょくじ》に付随する権力を、大牙を擁してひとり占めしようとした〈容《よう》〉伯・夏子明《かしめい》に対して、〈乾《けん》〉、〈貂《ちょう》〉、〈崇《すう》〉を代表とする諸国が手を結んで、〈容〉伯に抵抗する姿勢を示したのだ。結果、曲邑の地で会盟した北方諸国は、連合して〈征《せい》〉や〈衛《えい》〉に当たることを確認し、その象徴として段大牙が王の位に押し上げられたのだった。  夏子明は退位し、その子の夏弼《かひつ》が幼くして〈容〉伯となった。大牙はその後見役も兼ねていたのだが、〈征〉の侵入によって親子は行方不明となってしまった。  のちに、夏弼は〈征〉によって保護されていることが判明したが、臨城《りんじょう》に連れ去られたままのちの消息は伝わっていない。夏子明の方はもっと悲惨で、混乱に乗じて変装して逃げようとしたところを、盗賊とまちがわれて殺されたという噂だった。  詳しいことは、判然としない。〈征〉兵以外、その最期を見届けた者はいないわけで、信望を失って隠棲した国主を悼《いた》む者も、真実を知ろうとする者もなかった。大牙たち、旧〈奎《けい》〉の人間ですら、その死因を追及し、〈征〉の責任を問う気にはなれなかった。  もっとも、大牙にしてみれば、 「そんな暇があるか。詰問の使者を送っている暇に、当の〈征〉が攻めてくるんだぞ」  ということになる。  とにかく曲邑という土地は、〈容〉という国にとっては因縁のある場所だった。 〈容〉の西の国境上にあるこのちいさな城市《まち》——というより、砦《とりで》は、川に面していた。国境の多くは川や山脈といった自然の障害物によって規定される。曲邑は、浅いが水量のある川の東側にあり、〈容〉国内からの公道のほとんどは曲邑に集まっている。また、対岸からは西にむかって、何本もの公道が派生していた。  四通八達《しつうはったつ》の、いわゆる衢地《くち》と呼ばれる要地だったが、同族の国に面しているということで、その防備はあまり堅くはなかった。〈征〉が〈容〉を奪ってからは、ここがいわば最前線となったために、多少、城壁がわりの土塁が高くなり〈征〉兵が常駐するという変化はあったが、完全とまではいっていない。  その曲邑の観楼子《かんろうし》(物見)に詰めていた守備兵が、 「——敵?」  発見したのは、姑洗《こせん》(三月)も下旬の、早朝のことだった。  春の末(旧暦)にしては寒い朝で、遅い霜がうっすらと降りた中を、 「〈琅《ろう》〉の兵、いや、戎《じゅう》族か?」  騎馬が十頭ほど群れになっては、川を渡り始めたのだ。  十騎、また十騎。  もちろん、曲邑の方でも黙ってはいない。 「敵だ、敵襲だ。急使をたてて、国都へ知らせろ」  まだ眠りの中にあった城内は、大混乱におちいった。中には、 「なに、〈琅〉だと。そんなはずがあるか。細作《さいさく》の知らせでは、奴らはつい数日前に安邑を発ったばかりだというぞ。騎馬というなら、そいつらは戎族にちがいない」  と、断定をする者すらいた。  曲邑の守将は、禽不理《きんふり》の遠縁に当たる者だった。〈琅〉の急襲は十分予想のうちで、準備も覚悟もおこたりないつもりだったのだが、さすがにこの速さには動転して、 「門を閉じよ。一兵たりとも外へ出すな」  さして堅くもない城門を閉じて、守備戦のかまえにはいった。結果、その鼻先を騎馬の群れが無傷で通過していくこととなったのだ。 「閣下、あれは戎族ではないのでは。装備といい、面がまえといい、中原の人間も多いようです。噂に聞く〈琅〉の騎馬兵では」 〈征〉兵たちは、〈琅〉の正規軍にせよ戎族にせよ、まだ騎馬軍というものを直に見た経験がなかったのだ。むろん、上層部にはこれまでの戦の経緯や、馬が果たした役割は報告されている。だが、もとは〈征〉の農民だった壮丁《そうてい》たちには、無縁の世界だっただけに、一種の衝撃だったらしい。 「なんと速い。稲妻のようじゃ」  観楼子に上っていた数人の兵が、感嘆の声をあげたほどだ。  道路がある程度整備されているとはいえ、轍《わだち》をはずれれば跳ね上がり、頓挫《とんざ》することもある車とちがって、馬は少々の悪路など平然と走り過ぎる。しかも、〈琅〉の馬は東で農耕用に使われている馬とちがって、ずっと馬高が高く、細く引き締まっている。飛ぶように走るとは、こういうことをいうのかと、改めて〈征〉兵たちは思い知らされたのだ。  幸か不幸か、この騎馬の群れは、城門を閉じた曲邑を攻めようとはせず、門前をただ東へと通りすぎていった。攻城用の道具を運んできていないのだから、当然といえば当然だが、城内の兵はそれを知って一様に安堵《あんど》の色をうかべた。 「やれ、戦にならずにすんだわい」  彼らには戦意がまったくなかったのだ。  守将は、それでも武人のはしくれだけあって、川の流れのような馬の群れが尽きたのを知ると、 「城門を開け。追撃だ。奴らを後背から討ってやるのだ」  胸を張って命じた。 「莫迦《ばか》な奴らだ。われらを脅かして、曲邑に封じ込めたつもりだろうが、背中ががらあきになったのに気づかぬとは。しょせん、戎族の浅知恵だ」  高笑いをして、戦車に乗りこんだ。  戦車に乗るのは甲士と呼ばれる、いわゆる士大夫が三人。彼らの所領に住む壮丁たちが二十人ほど、歩卒として戦車の後に続く。長途遠征する時には、この後に革車《かくしゃ》が続くのだが、 「そう遠くまでいけるまい。全員、武器を持って続かせろ」  輜重《しちょう》兵まで、戦闘に加わらせるのは、異例中の異例だった。壮丁といっても、そうそう頑強な者ばかりが選抜されてくるわけではない。数戸にひとりずつと割り当てられたために、仕方なく出てくる者が多い。中には数回も従軍している初老の男もいれば、老人や病人にかわってやってきた少年もいる。本来なら兵にはしないような者たちは、革車にまわすのが通例だった。だから、戦えと命じられて勇むより、恐怖を感じる者も多かった。  不思議なことに、恐怖は伝染する。しかも、勇気よりも感染する速度が速い。 「おかしい、追いつけぬ。そう遠くまで行けたはずがないのだが」  守将が首をひねったのは、曲邑を出て一刻(二時間)ほど走ったころだった。 「あの馬の速度からして、もっとずっと先へいってしまったのでは」  同じ戦車上の甲士が応じると、 「莫迦者」  居丈高な叱責《しっせき》がもどった。 「知らぬわけがあるまい。馬の力には限度がある。車を引かせる馬を、一刻も全速力で走らせたらどうなる。騎馬だとて、同じことだ。いずれ、休息が必要になるはずだ」  たしかに、その知識は正しい。正しいのだが、さすがにもう半刻も戦車を走らせた後、道に馬蹄《ばてい》の跡がないことにようやく気づいた時には、彼の顔から血の気がひいた。 「しまった。見失った」 「どこかで、道を逸《そ》れたのでは」 「閣下、引き返して調べた方がよろしいかと」  甲士たちが、口々に進言する。他の戦車も寄せてきて、 「閣下、ここは慎重に」 「これでは、曲邑ががらあきです。〈琅〉軍が騎馬のみということはなし。後から、他の者らが攻めてきたら、曲邑は——」 「わかった」  どちらにしても、歩卒たちの息がもう、限界だった。小山を回りこんだ陰で、全軍停止し、 「しばし、休息を」  ひと息いれたら、すぐに曲邑へとってかえすといわれ、歩卒たちはそれぞれの主の戦車の側に固まって、腰をおろした。簡素な胴甲はつけたまま、短槍や短剣なども身につけたままのせいか、どこかいこごちの悪そうな表情で、彼らはたがいの顔を見交わし、わずかな水を分けあっていた。  異変に気づいたのは、軍の最後尾に近いあたりにいた、少年だった。もともと革車の係でもあり、最年少ということで、水を無くした大人たちに、 「さがしてこい」  と、命じられたのだ。  あたりは黄土の大地で、それらしい川も見あたらない。ただ、ぽつりぽつりと畑があるところから見て、地形の陰に井戸のひとつふたつが隠されている可能性はあった。  もときた道をひきかえしたのも、すぐに逸れて小さな谷を下ったのも、他意があったわけではない。谷底にはよく、伏流水が顔を出す泉か、掘抜きの井戸があると、経験上知っていたのだ。少年は、〈征〉の国都に近いあたりの、農民の子だった。  少年は、さがし物に夢中になるあまり、遠くに気をくばる余裕がなかった。馬蹄の音に気づくのも、ずっと遅かった。地響きのような音に目を上げてようやく、 「じ、戎族——?」  すぐ目の前まで、騎馬兵が迫っていることに気づいたのだ。  逃げる時間はなかった。なにより、少年は馬を間近に見てすくんでしまった。農耕馬や牛には慣れていたが、この馬たちはさらに高くたくましく、そして凶暴そうな目つきで少年をにらんでいるようだった。その上にまたがった漢《おとこ》たちも、異様な衣服と軽そうな胴甲を着け、鋭い視線で少年を刺した。 「孩子《ぼうず》」 [#挿絵(img/06_125.png)入る]  少年が逃げないのを見て、馬の群れの中から、ひときわたくましい黒馬に乗った漢がゆっくりと出てきた。黒馬の額には、そこだけ三日月のような白い斑《まだら》を戴《いただ》いている。漢の両眼が緑色に見えて、 (本物の戎族——)  少年は、へたへたと膝をついた。  漢はそのまま、馬上から、 「〈征〉兵か?」  簡単に尋ねた。 「こ、殺さないでください。なんでもします。おれは、戦なんかしたくなかったんです。でも、親父は年寄りで、それに兵にとられちまうと家で畑が作れなくなるから——」  震える声で始めた命乞いは、漢の苦笑で中断された。 「殺しはしないが」 「ほ、ほんとで」 「ただ、帰してやるわけにはいかん。俺たちの居場所が知られてしまう」 「俺、しゃべりません。絶対に、しゃべりませんから」 「それでも駄目だ。もどれば、死ぬとわかっているのに、むざむざ戻すわけにはいかんだろう。淑夜」 「はい」  声に応じて、やはり馬に乗った青年が進み出た。こちらは、あきらかに中原の人間とわかった。しかも、うっすら陽には灼けているものの、育ちのよさそうな物腰がにじみ出ている。この人なら、話がわかってくれるかもしれないとほっとしたのもつかのま、 「この孩子《こども》を、どこかそのあたりに縛りあげるかとじこめるか、しておけ。あとは、ひと仕事片付けてからだ」  無体な命令に、しかし淑夜とよばれた青年は、はい、とあっさりうなずき、背後をふりかえった。  合図もないのに、少年よりやや年かさの男がふたり、馬から降りて少年の襟がみをつかんだ。 「少しむこうの崖《がけ》に、横穴があった。農具が少ししまってあったはずだが、そこへほうりこんでおこう」  少年は、恐怖で声もたてられない。手足をかすかにばたつかせるのがせいいっぱいの抵抗で、ひきずられてたった埃《ほこり》もすぐに馬の群れのむこうに消えてしまった。 「ひとりやふたり、助けたところで、いいわけにもならんのだが、なあ。つくづく、偽善だとは思うが」  羅旋《らせん》の苦笑は、自分を責めるためのものだった。淑夜も、それと理解していたから、下手になぐさめることはせず、 「行きましょう。うかうかしていると、また、ああいう子が降りてきますよ」  羅旋が感じている痛み以上のものを、淑夜が感じていないはずがない。それと悟って、羅旋もうなずいた。 「行くぞ」  と声をかけることもない。羅旋が黒馬の月芽《げつが》の手綱を引き、方向を変えると、全員がその後にいっせいに続いた。  全員といっても、二百騎かそこら。もっとも、これが〈琅〉の騎馬の総数ではない。羅旋が西の茣原《ごげん》で養成させていた馬と人の中から選びぬいた、いわばこの数年間の精髄《せいずい》である。  顔ぶれが多様なのは、一部は戎族出身、一部は中原に居場所をなくした逃亡者や犯罪者だからだ。民族も生まれも育ちも違う者たちの間には、それなりの問題も起きた。一番の難問は、西と東の人間が、たがいを蔑《さげす》みあっているという点だった。  が、生き残るために必要なものは、血統でも家柄でも善良さでもないことが、戦をくりかえすうちに次第に浸透してきた。ことに、昨年の〈奎〉との戦は、長期にわたる退却戦であり、羅旋の騎馬兵はつねに一番の激戦の中をくぐりぬけてきただけに、結束が堅くならざるを得なかった。 〈奎〉との戦——長塁《ちょうるい》の戦の後、淑夜が〈奎〉で養成していた百騎あまりの騎馬兵も、そっくり吸収したが、齟齬《そご》はほとんど出ていない。  過去は過去のことだ。  現在を生きのびる力量と、執念だけが必要なのだ。そして、羅旋というこの戎族出身の国相の命令に従っていれば、生き残る確率が高そうだということも、彼らは皮膚で感じ取ったのだ。  曲邑守備の軍は、帰還の途中を騎馬兵に襲われた。  生き残って、命からがら東へ逃げてきたわずかな者から聞き取った話では、先頭に大きな黒馬に乗った漢がいて、まっしぐらに戦車の隊列に突入してきたという。  彼らは、二列になって進む戦車群に、横腹からつっこんで、矢を射かけてきた。むろん、戦車上からも射手が応戦したが、命中率がまるでちがう。〈征〉軍の弓が長弓なら、騎馬兵のあやつるのは、弦の長さの短い半弓である。本来なら、射程距離の短い方が不利なはずが、射抜かれて落ちるのは〈征〉兵の方ばかりだった。 「馬の上では、半弓の方が扱いやすい。距離を詰めなけりゃならない分は、射る速度と正確さ、それに動きの速さで勝負するさ」  実際、車は二本の轍《わだち》から外れるわけにいかず、そこから抜け出したとしても、方向転換に時間と手間暇がかかる。その点、馬は自在だ。  技倆のすぐれた者——当然、戎族出身の者が多かったが、彼らの中には、同じ場所で馬に正反対を向かせることを平然とやってのける者もいる。  それでも、両者の距離が開いているうちはまだよかったが、馬たちが戦車と戦車の間にはいりこんできては、もう弓は使えなかった。下手をすれば味方を射ちかねなかったからだ。  騎馬兵の方はといえば、まず射手を殺し、ついで戦車の御者を狙った。動けなくなった戦車から、いくら長い戈《ほこ》を振り回したところで、とどくわけがない。いち早く不利をさとって、戦車を降りた者は賢明だった。さらに、そこから逃げ出した者、武器を投げ出して降伏した者はもっと賢明だった。もっとも、それはごくわずかで、ほとんどが剣をふりまわして馬に斬《き》ってかかり、上から切り落とされたり短槍で突かれて落命したのだが。  中には、馬に踏み殺されたものまでいる。  踏まれるといえば、馬相手にもっとも危険にさらされるはずの歩卒たちは、戦になったと知った瞬間から、逃げ出していた。恐怖と不安が、出発時からつきまとい広がっていたのだ。そこをひと突きされれば、ひとたまりもない。甲士たちのような無用の矜持《きょうじ》もない彼らは、いっさんに武器を投げて逃げ出した。 〈琅〉兵たちも、彼らは追わなかった。 「どうせ〈征〉軍十万からすれば、わずかな数でしかないし、戦わずに逃げ戻った歩卒が、厚遇されるわけもなし。どうせ戦がいやな奴らばかりだ。〈征〉につかまらなければ、二度と出てくることもあるまい」  羅旋が、簡潔なことばで止めたのだ。 「ですが、こっそり故郷に帰るにしても、ここから〈征〉まで食料も持たずに戻るのは、たいへんですよ。よほど運のいい人間でないと」 「谷底に、飢えてころがっていただけに、実感がこもっているな、耿淑夜」  羅旋がからかったが、 「捕らえて、こちらの手駒として使うことを考えてみませんか」  淑夜は眉ひとつ動かさず提案してから、 「何年前の話だと思ってるんですか。恩の押し売りは、かえってありがたみを減らしますよ」  いいかえして、超光《ちょうこう》の首をめぐらして行ってしまった。羅旋は一瞬、憮然《ぶぜん》となって、 「あの野郎、いつの間に俺に、偉そうな口をきけるようになった」  思わず罵《ののし》ったが、すぐに逆方向に月芽の頭を向けた。  戦はまだ、完全には決着がついていないうちの会話だったのだ。羅旋たちが、どれほど余裕たっぷりだったか、想像するのも困難なほどだ。  ただし、 「調子にのれるのも、今のうちだけだぞ」  戦が一方的な勝利で終わった後に、羅旋は一同の顔を見回して告げた。 「今のうちに、暴れられるだけ暴れておけ」  と、つけくわえることも忘れなかったが、おおかたの者は、その双方を十分に自覚していた。その程度で意気がくじける者たちではなかった。 「大牙の方は、うまくやっているでしょうか」  淑夜が東の空を仰いでつぶやいた時も、 「あのご仁なら、心配はいらないだろうよ」  誰のものともわからない、明るい声がかえってきた。 「名家の公子なんてものは、皆、腰抜けか莫迦ばかりだと思っていましたがね。西から安邑《あんゆう》に戻ってきたあのご仁を見て、思いなおしましたぜ。なかなか、肝のすわったお人だ」 「なに、一緒に行ったのが、あの徐夫余《じょふよ》と壮棄才《そうきさい》だ。あのふたりがついていて、万一のことはあるまいさ」  たとえ瞬時だとはいえ、初戦の勝利にわく声が、天高くたちのぼっていった。  百花谷関《ひゃくかこくかん》は、大方の予想どおりほとんど無傷で通過することができた。  もともと、地形的にもゆるやかで、巨鹿関《ころくかん》の堅牢さとは比較にならない。〈魁〉が滅んだ後、自動的にここまで〈征〉の支配下に入ったが、臨城から遠すぎることもあり、ろくな守備兵はおいていなかった。ここを死守したところで、巨鹿関から侵入されれば、守備兵は孤立するからだ。ならば、巨鹿関を改造し、守りを固めた方がよい。〈征〉の力がもっと広く及ぶようになってから——たとえば、旧・北方諸国を手中におさめ、〈衛〉の一部になりとも侵入を果たしてからのことだと、魚支吾は判断したのだ。  結果、百花谷関から義京《ぎきょう》にかけて、段大牙の率いる一軍は、勢いをつけて雪崩《なだ》れこんだのだった。 「義京は迂回するとして——」  急ごしらえの竈《かまど》のそばに、主だった人間を集めて、大牙は告げた。  天幕も張らず、将が歩卒たちと肩をならべて座りこみ、同じ鍋《なべ》の中から簡単な食事をすする。一年前なら、考えられなかった光景が繰り広げられていた。それでも冀小狛《きしょうはく》らは、何度もたしなめたのだ。 「いくら王でなくなったとはいえ、将と兵の区別がつかなくなっては困りますぞ」  いわれた大牙の返答は、 「区別というが、何の区別をつけるんだ」  切りかえされて、冀小狛は口ごもった。 「味方同士ではないか。たしかに戦の時には、命じる者と命じられる者とに分かれるが、命を的にするという意味では、同等ではないか——いや、小理屈だな、これは。俺がこうしたいだけだ。こちらの方が気楽なだけだ。このやり方に慣れてしまったのだ。どうしても気になるというのなら、目をつぶっていてくれ」  屈託のない表情でいわれ、結局、押し切られてしまった。  玻理《はり》の存在についても、同様である。 「戦に、女がついてくるなど——」  これは、冀小狛だけでなく、他からも反対の声が高かったが、 「戦のことに、口出しはさせぬ。ただ、ひとりふたり、馬に習熟した者がいなければ、万一の時に〈琅〉まで報告を届けられる者がない。もちろん、戦の間は、俺の女房ではないし、女として扱う必要もない。本人も、それは承知だ」  淑夜が見ていたら笑いだすぐらい、熱心に説いたあげくに、「頼む」と頭まで下げたのだ。そこまでいわれては、逆に冀小狛らも、 「いえ、何もそこまでは」  玻理が大牙の妻として、かたわらに在ることを認めざるを得なかった。当然、主だった将を集めて輪になっただけのこの簡素な会議でも、玻理は大牙の隣に位置を占めていた。 「義京の守備兵は、ほとんどいない。半分以上焼けた城市を守ったところで、意味はないからな。問題は青城《せいじょう》だ」  かつての〈奎〉の国都である。大牙も、冀小狛も、この軍の兵の大半も、青城で生まれ育っただけに、思いいれは強い。ほとんどの者が、 「青城を放置するわけにはいかない」  大牙がそういってくれるのを期待して、目を輝かせた。だが、 「青城は、無視をする」  ことさら気負うでなく、さらりと大牙は一同に告げたのだ。 「なぜ、何故ですか」 「大牙さま、青城は我らの——」 「故国だ。いちいち俺に教えてくれなくてもいい。皆の気持ちを一番よく知っているのも俺だ。だが、敢えて、青城には手をつけるなという。脇道に逸れて、攻城戦をやっている暇は、今の俺たちにはないんだからな」  輪の半分からわっとあがった抗議の声を、大牙は一喝した。 「ついでに、ものをいう時はひとりずついえ。一度にいっても、俺には聞こえんぞ」 「では、儂《わし》が代表して申しあげます」  と、膝を進めたのは、やはり冀小狛だった。 「青城が、我らの艱難辛苦《かんなんしんく》の象徴だという感傷は、よろしい、さて置きましょう。ですが、青城には〈征〉の兵がおります。われらがこのまままっすぐ巨鹿関に向かえば、かならず青城から出てきて、われらを追撃しますぞ。数は千ほどとはいえ、これをわれらの背後に回らせるわけにはいきませぬ。巨鹿関との間ではさみ撃ちにでもなったら、それこそ何万と兵力があったところで……」 「ところが、それが狙いだ」 「なんですと?」 「奴らを青城からひっぱりだしたいのだ、俺は——いや、この壮棄才はな」  大牙のことばに指をさされたように、一座の視線がいっせいに、ひとりの人間にむかった。輪のもっとも明るいところに座りながら、じっと地面をにらんだまま、ひとことも口をきかず身動《みじろ》ぎひとつしなかった漢は、射るような視線にも反応しなかった。 「どういうことだ。謀士どの」  と、冀小狛が詰め寄った。ここ数年の苦労のために、髪こそ真っ白になったが、血気さかんなところは若者も顔負けである。一方、壮棄才は壮年、だがその表情は老人のようにも見えた。極端に無口な上に、口をひらけば辛辣《しんらつ》なことしかいわない。その上に態度も声も陰鬱《いんうつ》ときては、嫌われない方が不思議で、さすがの大牙も、彼を謀士として連れていけといわれた時には、あからさまに嫌な顔をした。 「なんでだ。淑夜ではいかんのか」 「まだ、奴では非情になりきれまい。情に流されない奴が必要だ、この際は」  羅旋にそういわれ、実際に壮棄才を呼んで策とやらを聞いて、大牙も納得した。  納得はしたが、好き嫌いは別で、こういう風に詰問されても、大牙は助け舟を出してやる気にはなれなかった。もっとも、壮棄才にいわせれば、望むところだったかもしれない。 「申しあげられませぬ」  たったひとことで、冀小狛の追及を拒絶したからだ。 「なにを」  冀小狛は、逆上した。止める者はいない。温厚な徐夫余ですら、顔を赤くして非難の目で壮棄才を見ていた。だが、孤立無援の状況を理解しているのかいないのか、あいかわらず人を見ようともせず壮棄才は、 「今は、申しあげられぬ。ことの直前になれば、いやでもわかります」  と、それだけ告げると、見せつけるようにくちびるを引き結び、大牙にむかって一礼して立ち上がった。 「逃げるのか、この——」 「やめないか、冀将軍」 「儂はもう、将軍ではございませぬ」 「では、冀小狛。他の者も、腰をおろせ。策は、確かに俺の胸に収まっている。だが、どこに敵の耳目があるかわからないのに、うかつに口にはできぬのだ。わかってくれ、俺に、万事、あずけてくれ」 「そうはおっしゃいますが、青城をとりもどすのは、われらの悲願——」 「ならば、今のうちにこれだけはいっておく。たとえこの戦、〈琅〉が勝つことがあっても、〈奎〉の再興はないと思え。俺も、再び〈奎〉伯になることはない。望めば、故郷に帰って住むこともできようが、領主や士大夫として戻れるとは思うな。戻るなら、一|布衣《ほい》としてだ。これだけは、きちんとわきまえて戦をしろ」  大牙は一語一語、きっぱりと区切りながら告げたのだった。 「なんと——」 「俺たちは〈琅〉の臣下なのだぞ。それが、勝ったからといって、自分の方からあの領地をくださいとせがむのか。それとも、〈奎〉のためにおまえらは戦をするのか、すでに失われた国のために。だったら、〈魁〉はどうする。〈容〉は、〈崇〉はどうする。それも、我らの手で再興してやらねばならないか」 「我らは〈容〉の民ではございませぬ」 「では、〈奎〉だけ再興してどうする。すぐに勝ち残った国に——それが〈琅〉になるか〈征〉になるかは知らんが、大国に押し潰《つぶ》されてしまうだろうよ。そもそも、この戦はなんだ。おまえたちを〈琅〉が利用したというかもしれないが、糧食や戦車、武器や衣服、その他もろもろはどうする。戦支度だけさせて、己《おのれ》の利益のためだけに戦をするのは、詐欺《さぎ》とはいわぬか」 「大牙さま、いくらなんでもそれはいいすぎです」  徐夫余が、たまりかねて声をあげた。 「冀小狛将軍も他の方々も、座ってください。落ち着いてください。これは軍議で、口論の場ではないはずです」 「俺は、口論なんぞしてないぞ」  拗《す》ねた孩子《こども》のような口調で、大牙が浮かしかけた腰を落とした。 「——冀将軍」  なかば立ち上がった冀小狛に、徐夫余は声と目で座るようにうながした。徐夫余といえば、もとは〈奎〉の一兵卒に過ぎないが、今は〈琅〉の国相の股肱《ここう》の臣のひとりである。温厚で、赫《かく》羅旋の信頼も厚い。反感はあっても、今の冀小狛に逆らえる相手ではない。それがさらに、この一徹な武人の不満と怒りをかったのだが、 「聞いてください、将軍。俺も〈奎〉の人間でした。いえ、今でも故郷の邑《むら》には兄が、わずかばかりの畑を守って暮らしていると聞きます。〈征〉の連中がやってきて、作ったものをあらいざらい持っていくのだと、一度だけ、便りが届きました」  兵役の割り当てにあたって、駆り出された。巨鹿関の守備についている時に羅旋や淑夜たちと偶然、関わったがために、遠い〈琅〉で暮らすことになり、命がけの戦も何度かくぐりぬけたが、本来なら彼も、今ごろ兄とならんで畑を耕していただろう。〈琅〉で手柄をたてることもなかっただろう。  とすると、彼にこの場で大きな口をたたかせているのは、間接的には〈奎〉という国と、その士大夫たちということにもなる。  その経緯と、徐夫余の名利《みょうり》を求めない人柄は冀小狛も知っていたので、おとなしく座りなおすより他なかった。 「俺だって、一日も早く青城をとりもどしたいです。〈奎〉から〈征〉の奴らをたたきだして、兄や故郷の邑の連中が安心して畑を作れるようにしたいです。ただ、俺のやりたいのはそれだけで、そのあと〈奎〉を治める方がどなたになってもいいと思うんです。いや、庶民というのは、みんなそんなものです。治める方が横暴でなくて、税をたくさん納めなくてよくて、あとは天候が順調なら、何も必要ないんです。だから〈征〉がいなくなったあと、やってくるのが良い人であれば、〈琅〉の人間でも戎族でも、〈奎〉の民人は受け入れるでしょう。——失礼ですが、大牙さまでなくてはいけない理由はなにひとつない。それに——」  大牙は苦笑していたが、冀小狛らの表情は険悪になる一方だ。それをこらえて、徐夫余はさらにことばを続ける。 「それに、大牙さまだって手柄をたてれば、いずれどこかの領主になられるかもしれないじゃないですか。その時、〈奎〉の民に対するつもりで善政をお布《し》きになれば、それは回り回って、〈奎〉の民のためにもなることではないでしょうか」 「どうだ、冀小狛」  いいたいことをいい終え、我にかえって肩をつぼめる徐夫余にかわって、大牙が声をあげた。 「聞いたか。徐夫余はおまえなんぞより、いや、俺よりもよっぽど道理を知っているようだぞ。今は〈奎〉も〈琅〉もない。〈征〉をここから追い出して、人が暮らしやすいようにしてやることだ。だれが治めるかは、そのあとのことだ。青城はかならず、とりかえす。無理に攻めなくてもいいように、ちゃんと策はたててある。俺を信じて、任せてくれんか。俺の命令に、何もきかずに従ってくれ」 「や、これは。主に、こうも短期間のうちに頭を二度もさげられては」  大牙の仕草に、冀小狛はじめ、一座のほとんどがあわてて後じさる。 「頭をあげてください。大牙さま」 「俺は、このために西から呼び戻されたのだ。国相のひとりが、わざわざ自分で頭をさげに来てくれたのだ。俺でなければ、おまえたちは黙って従ってはくれるまい、とな。とすれば、俺がこのためにおまえたちに頭を下げるのは、恥でもなんでもない。頼む、俺に、奴の期待に応えさせてくれ」 「——わかりました」  輪の中から、ちいさなつぶやきが聞こえたのは、それからどれほどの時が経ったころだったろうか。ひとりがほっと、ため息のようなかすれ声を吐き出すと、 「私も」 「ご随意に」 「ここまできて、まさか大牙さまおひとりを見殺しにもできるまい」 「されて、たまるか」  だれのものともしれない声に、すかさず大牙が切り返すと、笑い声が起きた。それがこの場の空気をやわらげ、やがてほとんどの者が大牙への信頼を表明し終えたのだった。 「なるほど、羅旋がおまえも連れていけといったわけだ」  一段落ついて、大方の人間がそれぞれの持ち場にもどったあと、竈の火を調節していた徐夫余にむかって、大牙がつぶやいた。 「私は、何もしてません。かえって、みなさんには失礼なことをいいました。昔なら、その場で首が飛んでも、文句がいえないところです」 「昔ならな」  水を汲《く》んできた玻理から、椀《わん》を受け取りながら大牙はつぶやいた。 「だが、今も昔もおまえのいったことは正論だ。国主のために民がいるのではない。本来、民のために国主が働くべきなのだ。まして、国主個人の野望のために、戦が起きるなどもってのほか——と、他人のことをいえた義理ではないな」 「いいえ、〈奎〉は大牙さまの欲のために戦をしたことはないはずです。淑夜さまから聞きました。新しい国の形を作るための戦は、必要です。俺たちの時代はともかく、俺たちの次の世代が、安心して畑を作ったり馬に乗ったりできるようにするためには、古い国の形を壊さなけりゃ仕方がない。これは、そのための戦だと——羅旋も、同じ意見です。〈琅〉王陛下も」 「北にいた時、そんなことを口にしたが、実現するとは思わなかった」  大牙は暗い天をあおぐ。 「だが、今ならやれそうな気がする。〈琅〉はすでに、あたらしい国だ。あとは、どこまで〈琅〉のやり方を通せるか——それが、ためされるのが、今度の戦というわけだ」  霧《きり》か靄《もや》でも出始めたのだろう。星はほとんど見えず、湿っぽい空気の中で、大牙はひとつくしゃみをした。 「大牙——」  玻理が革の上衣を差し出した。それを大牙が照れながら受け取るのを見て、徐夫余もまた、自分の配下たちが待つところへ戻っていった。      (二)  その日の朝、巨鹿関《ころくかん》の周辺はぼんやりと視界が悪かった。もともと、山あいの土地で、靄だの霧だのが発生しやすい土地だ。雨雲が低く降りてきて、雨だか霧だかわからなくなることもある。  巨鹿関は、天下の要害として知られていたし、〈征《せい》〉もこの関の防備には力をいれ、手に入れて以来、それなりの強化をはかっている。  もともと、関の東側に到達するまでには、谷間の細いくねった道を、相当の距離、進まなければならないが、西側に抜けてしまうと、すぐに周囲は開けてしまう。もともと、東の脅威から、義京《ぎきょう》を守るために設置された関だけに、谷の西の奥に建造物があるのだ。  東の敵がなくなったために、関も西向きに改造された。西側にあった守備兵の宿舎や武器庫は東側に移され、谷の西の入口には、もういち段、柵《さく》を設けた。文字通り、丸太を何本となくたてた柵だが、人の背丈以上あれば、戦車であろうが馬であろうが、ここで止まらざるをえないだろう。  その朝、靄の中を近付いてきた一団の戦車と歩卒の群れを見て、 「止まれ」  柵を守る兵が、厳しく誰何《すいか》した。 「何者だ」 「青城《せいじょう》の副将の、伊《い》という。〈琅〉の戎《じゅう》族どもが巨鹿関にむかったと聞いて、追撃をかけたのだが——」  一台の戦車が、ゆっくりと進み出てきた。  細かな鉄の札《さね》を連ねた、りっぱな甲《よろい》をつけた甲士が三人、威風堂堂、戦車の上にたちはだかっている。兜《かぶと》をまぶかにかぶっているが、その顔だちも口ぶりも、また立ち居振舞も、〈征〉の卿大夫《けいたいふ》としか思えなかった。  そもそも、この柵の守備兵もそうだが、〈琅〉は戎族の国、という先入観がある。実際は、戎族以外の者の方が多いのだが、目立つのだろう。その上、この戦車の上の甲士のことばが、兵たちの思考を誘導した。 〈琅〉兵なら、戎族のはず。ごつごつととがった顔だちをして、短い上衣を着、馬にまたがっているはず。この軍は中原の者ばかり、戦車ばかりだから、味方の軍以外にありえない。  見慣れない顔ではあったが、どちらにしろ〈征〉の地方から駆り集められてきた兵たちに、卿大夫をひとりひとり見分けろという方が無理というものだ。柵の兵卒長は士大夫の端だったが、これは「伊」という名で信用した。青城の副将のひとりの名にまちがいなかったからだ。 「〈琅〉軍ですと。昨日からこちら、この柵に近づいたのは御身《おんみ》方が初めてです。どこかで、わき道に逸れたのでは」 「そんな余裕はないはずだ。我らは、奴らの最後尾を常に見てきたのだぞ」 「そんなはずは」 「では、どこで失せたのだろう」 「——閣下」  副将のさらに副官らしい長身の男が、戦車を寄せて声をかけてきた。 「このあたりの山の中には、関を抜けるための間道も多いとか。昔、商家の庸車《ようしゃ》などがそちらを利用していたとも聞きます。まさか、間道に紛れこまれたのでは」 「莫迦な」 「しかし、可能性は」 「よし、もうすこし先まで追ってみよう。柵を開け」  と、命じられて、さすがに兵卒長も二の足を踏んだ。 「ここは、関の守将のご命令がないと、開けられません」 「莫迦者」  間髪をいれず、一喝が落ちた。 「〈琅〉の戎族どもが間道づたいに関を攻めたら、ここはこの少人数で孤立するのだぞ。それよりも、関そのものを破られてしまったらどうする。おぬしらの失態は、戦の趨勢《すうせい》まで左右するのだ。その責任をとる覚悟があるのか」  なかば恫喝《どうかつ》である。こう切り返されて、責任をとりますとは彼らが絶対にいわないのを見越した上での、賭けだったが、案の定、 「そこまでおっしゃるのならば——」  口ごもりながら、兵卒長は背後に合図を送った。 「門を開けろ」  伊という副将がその瞬間、車の上で思わず瞑目《めいもく》したのを、彼は知るよしもなかった。  門といっても、やはり周囲の山から切り出したままの木材を、荒く組み上げてあるだけのものである。戦車なら、二台が並んで通るのがやっとという狭さだが、その門を戦車の一群はすさまじい速さで通り過ぎていった。  そのあまりの速さに、兵卒長の胸にふと、理由のない不安がきざした。とはいえ、戦車群の半数が柵を通過してしまったのだ。もうとりかえしはつかない——。  胸の痛みは、その悔恨のせいだと彼は思った。胸が痛い、きりきりと、矢を射こまれたように痛む、これは何だ——。  おそるおそる見下ろした彼の胸には、太い矢が一本、深々と突き刺さり、まだ震えていたのだった。  それが、あの伊とかいう副将が走り去った方角から飛来したものと気がついて、再びあげた彼の視線の前に、 「すまぬ」  戦車のたてる音とともに、伊の声が降ってきたのだった。同時に、白い剣光も降ってきた。 「何故」  質問は声にならず、回答はついに与えられなかった。 「おまえらは囲まれた。無駄死にをするな。降伏する者は殺さぬ。くりかえす、武器を捨てよ。抵抗をやめる者は殺さぬ」  戦車上から大音声《だいおんじょう》が響きわたるのと、〈琅〉の旗が各車の上に引き起こされるのとがほぼ同時だった。柵の西側に残った戦車から弓を引き絞り、正確に狙いをつけている。こちらには、柵があるだけに、かえって手が出せない。 「先の〈奎《けい》〉伯国国主、段大牙《だんたいが》さまが、故国の窮状《きゅうじょう》を見兼ねてもどっておいでになったのだ」  周囲からわきあがるそんな声も、だが兵卒長の耳には、もう届かなかった。うつろな目をしたまま、こときれている彼の遺骸を見下ろして、 「すまぬ」  兜をおろして大牙がもう一度、つぶやいた。  羅旋《らせん》がこの策の実行のために壮棄才《そうきさい》を選んだのは、これ故だったかと、大牙は改めて思った。人を欺《あざむ》いて後背《こうはい》から攻めるような真似までは、淑夜《しゅくや》も我慢するだろう。だが、この柵の守備兵は〈征〉人だけとは限らない。〈奎〉の旧民たちも、兵役を割り当てられて前線にたたされているという。柵の兵卒長が〈奎〉人である可能性も高かったわけだ。それを、大牙にだまし討ちにさせた場合、大牙よりも淑夜の方が傷つくだろう。以前にくらべればずっと腰がすわったとはいえ、このやり方は淑夜の得手ではない。  壮棄才なら、少なくとも内心の動揺を表面に出さずにいられる分、ましだ。壮棄才だとて、何も感じないわけではないだろうが、少なくとも大牙にとっては、馴染《なじ》みがない分、責任をおしつけやすいだろう、という配慮でもある。 (なるほど、人づかいがうまくなりやがった。いや、荒くなったというべきか)  大牙はひとり、得心していた。  抵抗は、ほとんどなかった。柵を守る兵の多くは事前の心配どおり、多くが〈奎〉人だった。彼らは当初、成り行きにただ茫然《ぼうぜん》となっていた。抵抗をしなかったのは、旧〈奎〉国主なら、〈奎〉人をむやみに傷つけるような真似はするまいという考えからだ。先祖代々〈奎〉伯は領民を大切にしてきた信用が、ここで生きたのだ。  むろん、〈征〉人も多くいた。先ほどの兵卒長をはじめ、人を束ねる役目は、〈征〉人が充《あ》てられていたからだ。だが、彼らも多勢無勢を判断すると、すぐに武器を捨てた。彼らとて、生きて故郷に帰りたかったのだ。  こうして関前の柵の制圧は、あっさりと終わった。だが、大牙にとっての戦はこれからだった。 「柵を閉じろ。〈征〉兵の装備を取って、早く着替えろ。〈琅〉の旗を隠せ。戦車も、道の脇に隠すのだ」  戦車を道のない、踏み固められていない場所に移すのはひと苦労だ。馬をつけたまま、静かにさせておくのも大変だったが、歩卒たちが総掛かりでなんとかしてのけた。隠しきれない戦車は、そのあたりの藁束《わらたば》や薪《たきぎ》、草の束などを積み上げて、やはり外見が判然としないようにしておく。〈征〉の兵たちをしばりあげ、甲や武器を奪って各自、身につけると〈征〉兵の群れができあがった。  ちなみに、〈征〉の甲や武器といっても国からいちいち与えられるわけではない。兵役にあたった者は、自前で装備や糧食を整えてまず国都へ向かうのだ。実際の軍務に就けば、糧食は国から配給されるが、甲や武器、衣類はやはり自前である。〈征〉も〈奎〉も事情は同じで、〈征〉兵がそろいの甲を身につけているわけでなく、〈奎〉兵が特別な特徴を持っているわけでもない。  ただ、地方地方によって甲の材質がすこし違う。〈征〉は主に木の札を連ね漆《うるし》を塗った物を使い、〈奎〉はそれに革を貼《は》る。南方の〈衛《えい》〉では竹を使うし、一部には籐《とう》のつるを編んだものもあるという。  やはり相手に〈征〉兵だと思わせるためには、〈征〉の装備をそっくり着用する方が無難というわけだ。  戦車が一台だけ、かなり東寄りに用意され、〈征〉兵の甲をつけた徐夫余《じょふよ》ひとりが上に乗り、手綱をとって待機の姿勢にはいった。  朝からの視界の悪さは、変わらない。それどころか、天候が悪くなる一方で、こまかな霧のような雲が山はだに添って降りてき始めた。 「さて、これが吉と出るか凶と出るか」  丸太を組んだだけの望楼から下を見下ろして、大牙はつぶやいた。 「大牙さま、降りてください。この空模様では、もう何も見えますまい」  下で冀小狛《きしょうはく》が怒鳴ったのと同時に、 「来た!」  声と同時に、大牙は西の方角を身体全体で示した。 「思ったより早かったな」  高さを苦にするようすもなく、するすると大牙が降りてくると、 「物見など、歩卒にやらせればいいのです。何を好きこのんで、そんな下卑《げび》た真似を」  さっそくに冀小狛が文句をいうのを、 「俺は俺の好きなようにやる」  大牙は、きっぱりとさえぎった。 「何が下賤《げせん》か、何が高貴か、だれが決める。俺は必要と思ったことをやる。俺ができると思ったことをやる。だいたい、こんなことをいっている場合か。支度にかかれ。勝負はこれからだぞ。徐夫余に合図は送ったのか」 「は、すでに出発いたしました」 「では、行くぞ」  閉じた柵の東側に、大牙たちは展開した。といっても、以前の〈征〉兵たちと同数程度で、余った分はやはり、戦車のあたりに身を隠す。  やがて、馬蹄《ばてい》と車輪のきしみが聞こえ、一団の戦車がまっすぐ、柵をめざしてやってきた。 「〈琅〉軍が通過したと聞いて、青城から追ってきたのだ。見かけなかったか」  さきほどの大牙と似たような台詞《せりふ》を、長らしい男が告げてきた。  実は、大牙らは青城を無視してここへ来る途上、〈奎〉の民人を装った者を数人、青城近くまで遣って、噂を撒いておかせたのだ。つまり、釣り出したわけだ。  青城の副将という男は、名をやはり「伊」と名のったので、柵の陰では思わず失笑がもれたところもあったようだ。本物の伊は、背が低く風采《ふうさい》もあがらず、なにより武人とは思えないほど太っていたのだ。 「あの野郎。あんな奴と俺とをとりちがえやがって」  こちらが承知で偽名を使ったことも忘れて、大牙が物陰で毒づいたほどだ。  柵の門を守るのは、中肉中背、壮年の兵卒長だ。なるべく顔立ちに特徴のない者をえらんで、相手を信用させる配慮である。 「み、見かけました」  偽の兵卒長は、そう答えた。がたがたと足のあたりが細かく震えているのは、演技なのか、それとも緊張のためなのか判然としなかったが、 「何、見かけただと。それでどうした」  伊は食いついた。 「あの、行ってしまいました」 「どっちへ」 「それが、その、あちらで——」  と、兵卒長は背後の東の方角を指す。 「莫迦な。どうしてこの柵で止めなかったのだ」 「それが——止められなかったので」 「莫迦者。我らがこうして、柵の前で立ち往生しておるのだぞ。柵をどうやって越えたという」 「越えたのではありません。きちんと、門を通って——」 「だから、どうして門を通れるのだ」  押し問答というより、かけあいのようになってきて、これまた柵の陰で笑う者が出たが、本人同士はそれどころではない。 「どうしてといって、門が開けてあれば誰でも通れる道理でして」 「開けてあっただと——」 「は、昨夜、確認した時には確かに閉まっていたものが、今朝方、時ならぬ物音に目を覚ました時には、すでに、見慣れぬ戦車の群れが通りすぎていくところで。何故、開いていたのか、まったくわかりませぬ。夜半、卒の誰かが西側に出て、そのまま閉め忘れていたものか、それとも間者でも紛れこんでいたのか、それをこれから究明するところで——」 「ええい、今ごろそんな原因を調べて、何になる。さっさとここを開けぬか。〈琅〉の戎族どもをみすみす、通過させてしまった責は、また改めておまえの身体に問うてくれる。今は、追撃をすることが肝要。今ならば、逆に巨鹿関と儂らとの間で、はさみ撃ちにできよう」  太った体躯《たいく》を揺らすようにして、叫んだ。大牙のひそかな合図を受けて、兵たちがばらばらと動いた。門が開け放され、伊に率いられた戦車の群れが次々と通過するさまも、さっきとほとんど同様だった。ただ、大牙は最後の一兵まで残らず通過するまで、動かなかった。  彼らがすべて柵の内側に入り、最後尾の兵が道の曲がり角をまがって、完全に視界から消えてしまうまで待って、 「乗車!」  大牙の命令一下、再び戦車が持ち出され、人が乗りこむ。 「あわてるな。万全《ばんぜん》の支度を整えてからでなければ、出発はしない。それに、先行した徐夫余が成功していれば、敵同士で十分にやりあってくれるはず。俺たちが出ていくのは、そのあとからだ」  彼ひとり、馬に乗りながら命令を出していく。大牙が乗るまで馬の轡《くつわ》を押さえていた少年が、はるかに軽い動作で、自分の馬に飛びのった。むろん、少年ではなく、中原の侍僮《じどう》風の衣服をつけた玻理《はり》である。  大牙の命令で、兵たちもよく動いていた。  実は、大方の者がこの策の全容を知らされたのは、ここに至る直前だった。 「いいか。一度しかいわぬから、頭の中に手順をたたきこめ。異論は許さぬ。俺の命令に従わぬ者も遅れた者も、軍法に照らしてその場で処分するから、覚悟しろ」  大牙に脅されるまでもなく、ここまでついて来たのは皆、歴戦の兵である。戦のなんたるかは、十分承知していた。 「準備、できました」  大牙が予想していたより早く、隊列をととのえ甲もつけかえ、いつでも動き出せる態勢になったのだ。 「しばし、待て」  と、大牙が押さえた。その目は、東の方角、ほぼ巨鹿関あたりの上空に注がれている。 「さて、ここまではうまくいった。天がどこまで俺に親切かまでは、わからんがな」  巨鹿関の守将は、魚支吾《ぎょしご》の正妃、晏《あん》氏の縁者である。〈征〉の主だった将軍、参将、謀士、軍の幹部連中はみな等しく、名家の出身でなければ、功臣の縁者だったから、不思議なことではない。だが、だからといって、彼が武官としての能力に欠けていたわけではない。巨鹿関は、所有者が変わっても、向きが変わっても重要な関であり、その責任者に無能な者を就けるほど魚支吾も目が曇っていなかった。  関を守る、という点に関しては、晏というこの男も間違いはなかった。かつて、〈奎〉が〈衛〉の大軍を撃破した方法を調べ、参照して柵を築かせたのは彼である。また、関の中には油を常備させ、弓の名手を揃《そろ》えて毎日の訓練も欠かしていなかった。油の成分を調べ、火のつきやすい油をわざわざ精製させて巨鹿関に持ち込んだほどだ。  正攻法で力攻めにしてくる者に対しては、万全とまではいかずとも、しばらくは持ちこたえられるだけの準備はおこたらなかった。また、そう長い時間、頑張る必要もなかった。すぐ背後には長泉《ちょうせん》の野の新都があり、いざとなればそこから援軍がくる。たとえ巨鹿関を破られたとしても、長泉の野に出るところで食い止められる。  だが、その日、晏将軍が聞いたのは意外な報だった。 「柵が破られました。相手は〈琅〉の戎族どもでございます。青城の味方をまず破り、わが軍を装って柵を開けさせ、雪崩《なだ》れこみました」  報告のために晏将軍の前に連れてこられた長身の兵は、そこまで報告して気絶した。  彼が乗ってきた戦車は血塗《ちまみ》れで、あちらこちらに矢がつきささり、車輪の片方もはずれかけて無残なありさまだった。男自身、鉄の札《さね》を連ねた胴甲がほころび、髪を振り乱して狼狽《ろうばい》しきっていた。手傷はほとんどないが、疲れと衝撃のためと、緊張の糸が切れたために気を失ったのだろうと思われた。  晏将軍が、男を深く追及しなかったのはそのためだ。できなかった。その報告の真偽を確かめている間に、敵が迫っているかもしれない。ならば、とにかく、兵たちにこの一件を知らせ、守りを固め終えてから、詮議《せんぎ》を再開しても遅くない。幸い、男は気絶していて、邪魔にはなりそうにもない。  それでも、兵の宿舎の一室に閉じこめて、見張りをひとり立てる程度の用心はしたが、 「敵です!」  男の報告のとおり、戦車の一群が道の角を曲がって姿を現したのだ。  緊迫した空気に、晏将軍の頭にかっと血がのぼった。 「撃て!」  油を入れた小さな瓢《ひさご》が、矢に結び付けられて空を飛んだ。戦車群は射程にはまだ入っていなかったが、道にはたっぷりと揮発性《きはつせい》の油が撒かれることとなった。その上を戦車が通過する頃合いをみはからって、 「火を放て!」  火矢を撃ちこんだから、たちまち道は炎に包まれた。  もちろん、この戦車群は青城の副将、伊の率いる一隊である。すぐに〈琅〉軍に追い着けると思ったのに、巨鹿関に着く頃になっても敵の影も形もない。まさかと思ったその時に、巨鹿関から矢が何本も飛来した。 「すわこそ」  と、伊は思った。 「なんということだ。あの巨鹿関が戎族ごときに奪われてしまったのか。しかもこんな短期間に。いったいどんな左道を使ったのだ」  一気に、そう思いこんでしまった。  伊の失敗は、功を焦るあまり、先を急ぐあまりに道の轍《わだち》を確かめるのを忘れたことだ。雨こそ降っていないものの、相応の戦車が通ったならば、道にあたらしい轍や馬の蹄《ひづめ》の跡がつくはずだ。それを見ていけば、関と自分たちの間が無人だということに気づけたし、とってかえすこともできただろう。  だが、飛来した矢と燃え上がった火を見て、先入観が彼を支配したのだった。 「突っこめ。火を恐れるな。敵は巨鹿関上にあるぞ——」  関を攻めるには不向きな装備だが、それでも伊は叫んだ。 「巨鹿関を奪回するのだ。ここより東に、戎族の奴らを行かせてはならん」  伊にしてみれば、仇討《あだう》ちという思いもあっただろうし、ここで手柄をあげれば、という心づもりもあった。巨鹿関が落ちたにしてもつい先ほどのこと、守りは万全ではないはずという見こみが彼の判断を誤らせ、さらに関の背後の望楼の上に〈琅〉の旗がひるがえったことが、追い打ちをかけた。  とにかく、次から次へと事態が進行していき、待てよ、と考える隙を与えなかったのだ。  それは、関の晏将軍にしても同様で、火の海もかえりみず敵が突っこんでくることに目を見張り、関のすぐ下までたどりついた「敵」の顔を見て、妙だと気づいた。 「あれは——」  あわてて、隣にいた射手の手を止めさせ、 「よく、相手の顔を見よ。中に、戎族らしい顔つきの者がひとりでも混じっているか。髭《ひげ》の多い者、髪が茶色がかった者はいるか」  腕のよい射手は目もよい。そういわれて、目をこらしたが、 「——妙《みょう》です。それらしい者は」 「〈琅〉にいるのは戎族ばかりではないとはいえ、これは妙だ。なにやら下で叫んでいる声には、〈征〉の訛《なまり》もある気がする。もっとよく調べろ」 「しかし、そんな暇は——」  いいあっている間に、望楼の上に旗がひるがえった。それに気づいた時の彼らの顔は、蒼白《そうはく》を通りこして土気色だった。 「何故——、何がいったい、どうなっているのだ。何故、〈琅〉が東側から攻めて」 「違う、あれは——」  望楼の上の人影を指して、晏将軍の側近が叫んだ。 「あれは、遠目ではありますが、先ほどの怪我人にちがいありません」 「……だまされた」  晏将軍が、低くうめいた。 「あやつは、柵の守備兵ではなく〈琅〉の間者か。ならば、話はすべてわかる。矢を止めよ、攻撃をやめよ。だれか、下の連中に告げるのだ。我らは味方だ。同士討ちをしてどうする」  関の上からの矢の雨が止んで、伊にもようやく状況を確認しなおす余裕ができた。 「望楼に人が大勢、あがっていきます。最初の男を、引きずりおろすつもりのようです。とすると——」  報告する者もあり、さてはと、こちらも関の扉に攻撃をかけるのを止めた。まもなく上から誰何《すいか》する声が降ってきた。名を名乗ると、 「証拠は」 「虎符《こふ》を、青城から持ってきている」 「よろしい、確認してみよう」  ということで、ようやく関の門扉が開いたのだ。その間に、双方ともに少なからず被害が出ていた。ことに、伊の方は上からの火矢を避けることが難しく、半数が手傷を負い、数人がもはや手遅れと思われた。  門扉まで出迎えた晏将軍は、まずそれを詫《わ》びた。位ははるかに晏将軍の方が上だが、この際、先に攻撃をしかけたのは、彼の方である。謝罪するしかなかった。 「いや、こちらもだまされたのだ。まさか、柵が破られたという報告を持った者が、敵の間者だとは思わなんだ。奴めは今、望楼からひきずりおろし、ひっとらえてある。ただちに真相を質《ただ》した上で斬首《ざんしゅ》する」  云々《うんぬん》といっているところへ、 「来襲!」  ふたたび、大音声が響いたのだ。 「あわてるな、この粗忽者《そこつもの》。これは味方だ。よく確かめてから——」 「いえ、今度こそ敵です! 〈琅〉の旗があんなに。それに」  物見の声が詰まった。 「どうした!」 「先頭には、『段』と記した旗が。あれは、あれは〈奎〉の——」 「〈奎〉の段大牙!」 「閉じろ。門を閉じろ。今すぐにだ」  晏将軍も伊も喉が裂けるかと思うほどに叫んだが、謝意をあらわすために大きく開かれた門扉はそれほど早くは閉じられない。  その隙に、先頭を切って二頭の馬が二枚の門扉の間に躍りこんだ。うち一頭の騎手は、小柄ながら、入りこむなり短弓に矢を二本ずつつがえ矢継ぎ早に放つという離れ技をやってのけた。今一頭の大柄な騎手は、馬の上で戟《ほこ》をふるい、門扉に手をかけていた兵たちをなぎ倒す。  たった二騎とはいえ、不意を衝かれて大混乱となったところへ、戦車群が轟音《ごうおん》をたてて走りこんできたのだった。  歩卒たちはもちろん、車から降りていた伊も晏将軍も、またたくうちに蹴散《けち》らされた。 「徐夫余!」 「大牙さま!」  捕らえられて、今度はがんじがらめにされて宿舎に放りこまれていた徐夫余を、大牙自身が見つけたのは、それから四半刻(三十分)も経たない頃だった。 「無事か」 「はい」 「ご苦労だった」 「では」 「巨鹿関をとりかえしたぞ。これで、地下の父上や士羽《しう》兄者に、半分ぐらいはいいわけができる」  外には、故郷を奪い返した男たちの歓呼の声があふれていた。      (三) 「なに、曲邑《きょくゆう》が奪われた」 〈容《よう》〉の国都に入って、一番に魚支吾《ぎょしご》の耳にはいったのは、そんな不愉快な一報だった。  伝えたのは、先行していた漆離伯要《しつりはくよう》である。いきなり負け戦の報告では、魚支吾の機嫌がおさまるまいとしりごみをする群臣を押さえたのは、 「いくら不快でも、隠し通せることではない。ありのままにご報告するのが、主君に対する忠誠というものではないか。礼学《れいがく》は、こういう点を重んじる学問ではなかったか。日頃、私のことを、礼学を軽んじる輩《やから》とそしるなら、この程度のことはわきまえていただかなくてはな」  この皮肉だった。もちろん、それで魚支吾の機嫌が悪くなり、八つ当たりが飛んでくればその責任はとるつもりだった。彼自身が前線に出るといえばよいのだ。そして、成果をあげてくれば、漆離伯要の名もあがる。  だが、 「すぐに出発の支度を」  魚支吾の顔つきが、一瞬のうちに変わった。それまで、車の中で揺られていた病人とは思えないほど血色がよくなり、目に生気がもどったのだ。 「はい、すでに曲邑に向けては五千の軍を先行させて——」  伯要がとくとくと述べる声に重なって、 「孤《こ》が行くのだ。孤の戦車と、親衛兵の支度をさせよ」 〈容〉の旧・国主の館の奥に用意されていた牀《ねだい》の上から、むくむくと起き上がり、侍僮《じどう》の手もかりずに上衣を肩に羽織って立ち上がる。これには漆離伯要もあわてた。 「しばし、しばしお待ちくださいませ」 「待てぬ。放置しておくと、戎《じゅう》族どもは自在に〈容〉の国内を走りまわるぞ。曲邑だけは、とり戻しておかねばならぬ。五千をさしむけたと。それでは少ない、三万は必要だ。資材を運んで、砦を強化しなければならぬし」 「陛下、陛下」  夜着の上に上衣を羽織ったままで室から出て行こうとする魚支吾の前に両手を広げて、伯要は戸口でようやくさえぎった。侍僮や三人の太医《たいい》たちもおろおろしながら、着衣の裾をわずかに押さえた。王の身体に手をかけるのはとんでもない非礼にあたるため、実力で押さえつけるということができないのだ。 「陛下、お身体のことをお考えください。無理でございます。せめて、薬湯を召し上がり、明日までご静養あって、その後、具合を見てからのことにしてくださいませ。でなければ——」 「でなければ、なんと申す」  足もとにうずくまった太医にむけて、鋭い質問が発される。その声の張りも、病人のものではない。 「某《それがし》の仕事が全《まっと》うできませぬ」 「では、診察せよ。今すぐ診《み》るがよい、孤が病人かどうか」  突き出した腕はまだ、肉が落ちたままで肌にも艶《つや》がなかったが、力はもどってきているようだ。  困惑した太医たちは、その腕におずおずと触れ、魚支吾をなだめて座らせると目や口もと、首すじなどを丹念に見ていったが、やがて、 「これは、おどろいた」  顔を見合わせて、口々につぶやいた。 「どうした」  と、漆離伯要が身を乗り出すまでもなく、 「つい先ほどまで脈もとぎれがちで、謁見《えっけん》なさるのも我らは反対したほどでしたが」 「臓腑《ぞうふ》の働きも、しっかりとなってまいりました。この分では、数日もすればすっかりご全快なさるかと」 「孤のいったとおりではないか。納得したであろう。さ、早く支度を」  魚支吾はいらいらと立ち上がる。 「お待ちくださいませ。あと数日、三日でけっこうです。三日の間は、ゆっくりご静養くださいませ。気脈は整いかけておりますが、人の身体と申すものは、そう簡単に回復するものではございませぬ。今すぐなど、とうてい無理な話」 「どうか、我慢のほどを。でなければ、本当に我らでは責任が負い切れませぬ」 「たってと仰せならば、我らを解任していただきとうございます」  最後の台詞は、彼ら太医たちの最後の切り札だったはずだ。以前なら、魚支吾もそれでひきさがっただろう。だが、太医たちの思惑は、軽く一蹴された。 「よかろう、全員、下がるがよい。ついでに、臨城《りんじょう》まで戻って沙汰《さた》を待て」 「へ、陛下!」  ここで役を解かれるということは、単に職を失うにとどまらない。王の命令に従わなかった者には、懲罰が待っているのが当然だ。 「陛下、そればかりは御容赦を」  いっせいに平伏する彼らを、漆離伯要の目が冷ややかに見下ろした。 「誰か」  伯要の声に応じて、衛兵が入ってくる。 「太医どのを、外へ。臨城まで護送せよとの| 詔 《みことのり》である」  衛兵は、魚支吾がうなずくのを確認して、太医たちの腕をとる。しおしおと腰をあげる者、哀願する者、引きずり出される者、三者三様をじっと見送る伯要に、 「溜飲《りゅういん》が下がったであろう」  魚支吾の、皮肉そうな視線が向けられていた。否といえば虚言《うそ》になる。確かに、魚支吾の病状はよいとはいえなかったから、政務や謁見《えっけん》を制限したのは、医師としての適切な判断だったのだろう。だがその間、重要な用件の上書を取り次ぐと称して、彼らが賄賂《まいない》を取っていたのも事実だった。  一時的なもの、また非常に制限されたものではあったが、彼らは王の太医という立場を最大に利用して私腹を肥やし、権力の一端を握ろうとした。それを苦々しく思っていた廷臣も多かったはずだし、その点では漆離伯要も多数派だった。  魚支吾の先行きに漆離伯要が、わずかながら不安を抱いたのも、実はこの点が多少関係していた。佞臣《ねいしん》の存在に気づかないほど、気力が衰えたのではないかと疑っていたのだが——。 「おそれいりました」  伯要は、素直に頭を下げた。やはり、魚支吾は知っていたのだ。承知の上で、病気が全快するまではと、じっと押さえていたにちがいない。 「これでわかったであろう。孤の甲《よろい》を持ってまいれ」  これは、侍僮にむけての命令である。 「禽不理《きんふり》将軍を、曲邑に至急、向かわせるよう詔を書く。伯要、おまえも曲邑へ行くがよい」 「は」 「〈琅〉の戎族どもの足を止める方策、至急立てて、禽不理に教えてやるがよい。できるな」 「は、おまかせを」 「行け」  声にも顔にも、以前の毅然《きぜん》とした色がよみがえっていた。 (勝てる)  漆離伯要は、その瞬間、確信した。戦は将帥《しょうすい》の覇気で決まる。たとえ直接前線に出ることはないにしろ、その気迫は確実に兵卒のひとりにまで伝わるものだ。まして、 「小細工はするな。わが方は、数で完全に勝《まさ》っているのだ。正攻法をとれば、かならず勝てる。孤は、正々堂々と〈琅〉をたたき伏せたいのだ」  この漢は、覇道を行こうとしている、と漆離伯要は感じた。 「天下をかすめ取ったなどと、後の史書に記されたくはない。誰もが、文句をいえぬ形でこの国を統一しなければ、意味がない。おまえなら、わかるな、伯要」 「はい」  漆離伯要は、主君の眼光に圧《お》されるようにふたたび、叩頭《こうとう》した。  曲邑には、〈琅〉の羊角《ようかく》将軍がさっそく入っていた。だが、派遣しておいた物見が、〈征〉の軍三万の来襲を報告してくると、 「退くとするか」  あっさりと退却を命じた。  反対する者は特になかった。これは、予定の行動だったからだ。 「曲邑のような小さな邑《むら》では、守ることもできぬ。地形も単調で、小勢には不利だ。どうせ、莱陽《らいよう》の野までは〈琅〉の国外。攻めこんでいるのはこちらの方なのだから、無理をせずにとっとと退くのが良策じゃろう」  いったん、東へ一気に進出して、それからすこしずつ退却する。〈征〉をできるだけゆっくり、可能なかぎり遠くへとおびき出す。それが、〈琅〉の策の第一段階だった。  羊角は、〈容〉の国内深く入っていた羅旋《らせん》たちにも、ただちに引き上げるように指令を飛ばした。  先年の長塁《ちょうるい》の戦のように、馬の機動性を生かして、敵国内の攪乱《かくらん》のために、羅旋たちは散っていたのだ。前回は、羅旋たちの所在は〈琅〉でさえつかみきれなかったが、今回は彼らは緻密《ちみつ》に連絡をとりあっている。二日のうちに、大半の者が曲邑を通って西へ引き返していった。  ただし、羅旋自身と、彼に同行している数人からは、ただちに引き返すが、すこし遅れるといってよこした。 『片付けておくことがある』  との伝言で、 「待ちますか」  と副官にたずねられた羊角は、 「いや、羅旋からはこういう場合、待たずに退却しろといわれておる。先に逃げ出しても恨まれる筋合いはないが、さて、羅旋たちが無事にもどって来られるだろうか」 「信じるしかありますまい」  そう答えられて、羊角は白い髯《ひげ》に手をやりながらうなずいた。 「あの漢《おとこ》には、是が非でも戻ってきてもらわねば困る。そういえば、淑夜《しゅくや》とかいうたの、あの〈衛《えい》〉の耿無影《こうむえい》の堂弟《どうてい》、あれも羅旋と一緒だったな。皆、顔をそろえてもどってきてくれねば、おもしろくない」 「ひどく、お気に召したものですな。将軍」 「羅旋配下の者らは、躾《しつけ》がよいらしく、老人を敬《うやも》うてくれるものでな。つい、甘くなるのじゃよ」  下手な冗談を飛ばしてから、羊角は撤退の準備にかかった。  もともと偽装《ぎそう》のための駐屯《ちゅうとん》だから、退くとなるとすばやい。  羊角が撤退した翌日に、曲邑へ殺到した禽不理は、茫然《ぼうぜん》と空の城市《まち》を見渡した。  たいして高くもなかった四囲の壁は無事だったが、四方に通じる門は完全に壊されていた。門扉がはずされて、砕かれていただけではない。その門を設置してあった通路ごと、突き崩されていたのだ。  瓦礫《がれき》の山はたいした量ではなく、入城することは可能だった。だが、 「どうやって守れというのだ。この城を」  内部の家並みは無事だが、食料や資材は〈琅〉がほとんど持ち去ってしまった。ちなみに、住民は先に〈征〉軍が駐屯中に、ほとんどが逃げ散ってしまっていた。〈征〉にしてみれば、食料を〈琅〉にかすめ取られたようなものだ。  禽不理は、困惑した。 「これでは、攻められればひとたまりもないぞ。漆離伯要、早急になんとか手がうてぬか」 「私は、将軍の命令を受ける立場ではございませんぞ」  と、いいかけて、伯要は思いとどまった。そんなことをいっている場合ではない。戦は得手ではないが、知恵がないわけでもない。ここで禽不理の苦境を助けてやれば、のちのちのためにも役に立とうというものだ。 「曲邑を放棄するしかありますまい」 「莫迦《ばか》なことを申すな。我々は、曲邑を奪回するよう、陛下から命じられてきたのだぞ」 「ですが、意味がないものを取り戻しても、仕方ありますまい」 「では、どうしろという。このまま、おめおめと〈容〉の国都へ戻るのか」 「いえ、その逆です」 「何?」 「撤退した〈琅〉軍を追撃するのですよ。相手は、我々が曲邑を攻めに来たと思っている。だから、曲邑を明け渡せば、曲邑に入ってそこを守ると思っている。そこを衝《つ》くのです。曲邑にいた兵は、せいぜいが一万、それも戎族どもをふくめての話と聞きます。ならば、油断しているところへ、追撃をかけて一気に殲滅《せんめつ》してしまえば、〈琅〉の国力は格段に落ちます。それから曲邑へとってかえしても、遅くはない。主命にも、そむいたことにはならないでしょう」  漆離伯要の、とうとうと述べる口もとを、禽不理はあっけにとられたように見ていた。 「しかし、それは結果がよければの話だ。もしも失敗した場合、どうするのだ。——いや、我々はそもそも、曲邑を奪回せよと命じられてきた。それ以上のことをすること自体、主命に反すること。陛下がもっとも嫌われることではないか」 「では、どうなさいます。この役に立たない拠点を守ってじっとしていますか。念のためにいっておきますが、〈琅〉が曲邑へ再び攻めよせる可能性は、非常に低いと思います」 「そそのかすな」  禽不理は、漆離伯要の得意げな顔をねめつけながら、吐き出すように告げた。 「おまえの魂胆《こんたん》は、見えすいておるわい。儂は、あくまで陛下の命令に従う」 「わかりました。では、兵を貸してください」 「どうするのだ」 「私が指揮を執《と》ります。一万で結構。どうせ、この曲邑に三万もの軍勢ははいりますまい。外に出る分を預からせていただく」 「そなたが、指揮を執るだと」  禽不理のみならず、ふたりの会話を聞いていた麾下《きか》の武官たちが、いちように冷笑をうかべたが、 「文弱《ぶんじゃく》の徒が、という顔をされていますね」  と、漆離伯要に正面きって指摘されると、あわてて表情をひっこめた。 「戦とは、力のみでするものではない。かつての〈奎〉伯国の巨鹿関の戦にせよ、先年の〈琅〉の長塁の戦にせよ、一歩、先の策をこうじた者が勝利しました。戦車に乗れる者だけが、策を練り指揮を執れるわけではないということ、私が証明してみせましょう」  ことさら、胸を張って漆離伯要は言いはなってみせた。 「よかろう、やれるものなら、やってみるがよい」  ということばを、反射的にひきずり出すための虚勢だったが、その狙いはまんまと図にあたった。 「一万の兵、そなたに貸そう。ただし、その勝敗に関しては我らはいっさい、関知せぬ。そなたが、命令をいつわって兵を動かしたことにする。勝てば、その罪は帳消しになるだろう。負けても、我らは知らぬこと。おのれひとりで責任をとるのだな」  漆離伯要の方に、一方的に不利な条件だった。不当だと、叫びたいところを伯要はぐっと我慢した。  勝ちさえすればよいのだ、と。  策はある。戎族の馬を止める手段もある。  十分に勝算はある、と。  漆離伯要は、戦車にも乗らなかった。甲《よろい》も兜《かぶと》もつけず武器も持たず、四人の歩卒に担がせた輿《こし》で戦場に臨んだのだ。  昨年、新都を〈衛〉に囲まれた時、やはり武装せずに〈衛〉王・耿無影との会談に臨み、威圧されてしまった。その雪辱のつもりだった。  もともと、戦に関することは、禽不理にも告げたとおり得手ではない。彼のとなえる学問も、礼学をたたき台にした実学に近いもので、人材の登用法や| 政 《まつりごと》の組織の運営、税収の方法を、いかに整備していくかを説く。ことに、厳罰主義で臨《のぞ》む傾向が強かったために、〈征〉の学問である刑学と一致するところが多く、魚支吾の意にもかなったのだ。  ただ、この時代の学者というものは、ただ一芸に通じていればよいというものではない。武人が政治家としての資質を要求されるように、学者というからには、戦略のひとつもたてられるのが当然なのだ。  むろん、漆離伯要もその期待を回避する気はない。こうしてことさら、文の側面を強調しながら戦場へ出ていったのは、勝利した時の効果を考えただけだ。  もっとも、百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の羊角からすれば、 「なんだ、こけおどしか」  ということになる。 「追撃をかけてくるから、どんな知恵者かと思えば、この程度か」 「将軍、なめてかかるのは危険では」 「なに、なめる気はない。最初からこちらは負けて逃げる気でいるのじゃ。用心はするが、しすぎる必要はない。本当の知恵者なら、こんな場合は、正攻法で攻めてくるものなのに、ほれ、ことさらに戦車の間を詰めている。あれは、騎馬に戦車と戦車の間を分断されぬための用心らしいが——」  羊角は、 「あれでは、追撃しにくかろうに」  声を出さずに笑って、 「仕方がない。望みどおり戦をしてやろう。ただし、深入りをするな。怪我などしてはつまらぬ。まして、死んでは意味がない。仕掛けるふりをして、退却せよ」  羊角には、この少数で、しかも羅旋指揮の騎馬軍の援護なしに、まともに戦をする気はない。あらかじめ、打ち合わせておいたとおり、いったん攻めかけた〈琅〉の戦車軍は、漆離伯要の布《し》いた陣と接触をする直前に、さっさと引き上げた。  同じ戦車同士ではあるが、〈征〉と〈琅〉とではすこし差がある。まず、馬が格段にちがう。乗馬用の馬が俊足なのは当然として、戦車用の馬にも西方産の血は確実にはいっている。乗馬用にははるかにかなわないが、中原の馬とはくらべものにならないほど体格のよい馬を、〈琅〉はそろえていた。  しかも、〈琅〉の戦車は乗員をふたりに絞っている。限られた人口の中で、騎馬兵を増やそうと思えば、当然、戦車の乗員を減らすしかなかったのだ。  当然、戦車は軽く、速く走るようになる。  戦車に乗る甲士のうち、御者の役目は変わらないが、いまひとりは、右士と左士の役目をひとりで兼ねることとなり、負担は大きくなったが、接近戦ではどうせ、弓はあまり使わないのだから実害はなかった。 〈征〉が、戦車の乗員の削減に消極的だったのは、まず第一に人口が多く、必要がなかったためだが、いまひとつ、身分意識が強く作用している。  士大夫《したいふ》層からなる甲士が、庶民から徴兵される歩卒よりも身分が高いのは当然だが、三人の甲士の中でも序列はきちんと決まっている。御者がもっとも低く、弓を持つ右士《うし》が中間、戈《か》を持つ左士《さし》が最上位となる。  その最上位の左士が、右士を兼ねることに反発したのは、当然のなりゆきだったともいえる。右士に戈を与えれば、左士が不要ということになり、これまた反感が起きる。  無理に削る必要もなかったし、そもそも魚支吾はこういった面の改革には不熱心だった。 「なに、ひとりやふたり、人手を削って他へ回したところで、どれだけの効果があろう」  鷹揚《おうよう》にかまえて、二、三年前に一度だけ出した漆離伯要の改革案を却下した。伯要の方も、軍の改革も考えているという姿勢だけ、魚支吾に見てもらえればそれでよかったので、それきりひきさがってしまった。それを、彼は今、ひそかに悔やんでいた。 「なんと、逃げ足の早い——」  追おうしたが、思うにまかせない。あまり戦車を突出させすぎると、歩卒がついていけなくなり、さらに輿に乗った彼自身が置き去りにされる可能性があって、 「もう、よい。深追いをするな。我らの勝利だ。これ以上、勝ちをあせるな」  兵に送った彼のことばは、そのまま、彼自身にいいきかせることばだったにちがいない。  それでも、勝ち戦は勝ち戦だ。 「勝ちましたぞ」  と、胸を張って曲邑に戻ってきた漆離伯要を待っていたのは、 「この、不届き者!」  魚支吾自身の叱責だった。  それも、尋常の怒りようではない。 「陛下、陛下、どうぞ、お気をお鎮《しず》めくださいますように。臣に過ちがあれば、いかようにも罰を受けましょう。ただ、そのように怒られては、病後の玉体に障ります。どうぞ、落ち着かれた上で、臣がどのような罪を犯しましたものか、お聞かせくださいますよう」 「落ち着けだと。罪を聞かせよだと」  魚支吾の怒りは、さらに激しくなった。 「陛下」  同じ場に控えていた禽不理が、はらはらと声をかけてようやく、少ししずまったが、 「孤《こ》がいって聞かせなければ、おのれの罪がわからぬか。おまえは、王の命令に背いたのだぞ。これでも、罪はないと主張するか」 「おことばですが、戦とは機をみてするもの。むざむざと好機が目の前にあるのを見過ごしにしては、勝てる戦も勝てませぬ」 「それで、〈征〉一番の知恵者か。これが罠《わな》だったら、どうするつもりであった。相手は〈琅〉だ。段大牙を国内深く引き込んで、軍を分断し、退却するところをひとつずつつぶしていった、同じ策を我らにも仕掛けようとしておるのだぞ。それが、わからぬのか」 「しかしながら——」 「口答えするか!」  魚支吾の憤激は、いっこうにおさまらない。漆離伯要が口を開くたび、それがひどくなる。要するに、魚支吾は、おのれの命令に従わなかったという、その一点で激高《げっこう》しているのだ。彼は王であり、最高指揮官である。  結果さえよければいいだろうという意見もあるだろうが、では、勝てば命令を無視しても許されるという例ができれば、この先、第二、第三の漆離伯要が出る。そのすべてがかならず勝つという保証でもあればよいが、それがない以上はここで厳罰に処しておかねば、〈征〉軍は軍のかたちを成さなくなってしまう——。  ただ、理屈はそうなのだが、それがやがて漆離伯要との意地の張り合いの様相を帯びてきたのを見かねて、禽不理が再び口をはさんだ。 「おそれながら、陛下」 「なんだ」  不機嫌ではあるが、声音が少し低くなる。 「伯要どのを追い詰められませぬよう、臣からお願い申しあげます」 「なんだと。そなたまで、こやつをかばうのか。そなた、こやつとは不和であったのではなかったか」 「かばうつもりはございません。ですが、伯要どのとの確執がなければ、臣とて深追いしていたかもしれませぬ。たとえ罠だとわかっていても、好機をとらえて動かぬわけにはいきません。まして、今回はこちらが圧倒的多数。正攻法で攻めて勝てぬはずがないと、だれでも思います。伯要どのひとりの罪ではない。それを追及なさるなら、あおった臣もまた同罪」 「うむ」  下から見上げながら迫る禽不理の眼光に、さしもの魚支吾も声を詰まらせた。 「深入りは禁物とおおせでしたが、今回の場合はいずれ、〈琅〉国内にまで踏み込まなければ埒《らち》のあかぬ戦。罪は軽いかと存じます。罪を裁くならば、軍法に照らして公平にお願いいたします。臣の申し上げたいことは、それのみ」 「——わかった。下がってよい。漆離伯要は、〈容〉へもどって佩《はい》についておれ」  断ち切るように命じられ、「陛下——」となおも弁解を試みようとする漆離伯要の肩を禽不理が押さえた。黙って首を横に振る彼の表情を見て、漆離伯要も今度ばかりはおとなしくいうことを聞くしかなかった。これ以上は無益《むえき》だという、禽不理の表情は正しかったからだ。 「感謝いたします」  御前を下がってまず、漆離伯要は禽不理にむかって頭を下げた。 「誤解せぬことだ、漆離伯要どの。儂《わし》はそなたをかばったのではない。明日は我が身ということばもあるのでな」  禽不理は年齢以上に疲れた顔をしていた。 「もともと、儂はこの戦には反対だった。戦続きのわが国に、〈琅〉を完全に制する力があるかどうか。たとえあったとしても、そのあと無傷の〈衛〉に対して支えきれるか——あやういものだ。中原を統一したいという陛下のお気持ち、わからぬでもない。だが、これは一朝一夕に成るものではない。焦った者が先に自滅する——その道理がわからぬはずはないのに、陛下は焦っておられる。そなたらが、よけいな口出しをしてあおった節もあるが、なにより陛下がそれを望まれ、選択されたのだ。儂は武人で〈征〉の卿大夫だ。戦の趨勢《すうせい》がどうなろうと、〈征〉の戦の前線にたつのが役目だが、そなたはちがう。何が目的か、儂にはよく理解できぬが、こんな空しい戦に殉じる必要はない。とっとと戻って、命を長らえる算段をすることだ。どのような手を使っても、今度ばかりは儂もとがめだてはせぬ」  長い長い、独言《ひとりごと》のようなことばだった。漆離伯要に対する刺《とげ》が突き出ているくせに、妙に哀切な口調がふくまれていて、伯要は反論することを思わず忘れてしまった。 「おことば、ありがたく聞きましょう」  素直に頭を下げると、 「ご武運を、とはいいますまい。この戦、正攻法で攻めていけば、勝てる戦です。ただ、馬にはお気をつけられよ。あれは、戦を攪乱《かくらん》する意図で投入されてきます。防ぐ方策をたてたのですが、今回は何故か騎馬が出てこず、早々に逃げられてしまいました。よろしかったら、方法をお伝えしていきます。用いられるかどうかは、禽将軍のご選択に任せます故」 「聞いておこう」  うなずいて、禽不理はかすかに身を傾けた、ちょうどその時だった。 「将軍、禽将軍」  倉皇《そうこう》として駆けてきた男が、禽不理の姿を見て、倒れこむように足もとに平伏した。 「何事だ」 「国元からの急使です。巨鹿関《ころくかん》が」 「何?」 「巨鹿関が奪われました。相手は〈琅〉の旗と『段』と記した旗を掲げているそうです。仇士玉《きゅうしぎょく》将軍から、至急、新都へ援軍をとの要請です!」 [#改ページ]  第四章————————風の中の旗      (一) 「いつ、新都の連中が攻めてくるか」  それが、巨鹿関《ころくかん》に陣取った段大牙《だんたいが》の、最大の関心事だった。仇士玉《きゅうしぎょく》とやらいう若い新都の守将をおびきだし、新都を空《から》にさせるために大牙が授けられた策というのは、ひどく単純な手で、 「こんなことで、ほんとうに動くのか」  立案者の壮棄才《そうきさい》に、何度も聞きなおしたほどだ。  こんな時、淑夜《しゅくや》ならばきちんと、相手の心理や事情まで推《お》しはかって、説明し安心させてくれるのだが、この無口な謀士は、 「いうことを聞いてさえいればいいのだ」  と、いわんばかりな眼でにらみかえすばかりで、ひとことも口を開いてくれなかった。 「そういえば、奴の前身も聞いたことがない」  玻理《はり》を相手に、大牙はぼやくしかなかった。 「たしかに、淑夜以上に頭のいい奴だとは思うが、あれはなんとかならんのかなあ。やりにくくて仕方がない。羅旋《らせん》は気にいっているようだが」 「あたしは、あの人も同じだと思う」 「どうせ、俺は羅旋に比べれは格が落ちる」 「そういう意味じゃない」  玻理は切れ長な目をさらに細くして笑った。 「あの人は、あの人を嫌いなのよ」 「自分で自分を嫌っているというのか」 「嫌い、いえ、憎むというの?」  中原のことばに、まだ習熟しきっていない玻理は、首を傾けながら大牙に告げた。 「あの人は、何もかもが嫌い。そして、そんな自分が嫌い。好きになれない自分を、悲しんでいるように思える」 「ふむ、おまえ、いつの間に人の心を見透かすようになった」  草原の娘らしく陽に灼《や》けた玻理の横顔を見ながら、大牙は感心したようにつぶやいた。  壮棄才への不信はそれで、いったんおさまったものの、大牙の不安は消えるものではない。それは、麾下《きか》の将兵たちも同様だった。  巨鹿関を取ったといっても、そこに立て籠っていれば勝てるというものではない。西向きに改造された巨鹿関は、当然東への守りが手薄《てうす》になっている。関から谷間の入口までの細く長い道には、幾重もの仕掛けをしておく必要もある。おびきだした〈征《せい》〉軍に撃破されては、意味がない。  西側の青城《せいじょう》、義京《ぎきょう》にもまだ、わずかだが〈征〉軍は残っているから、そちらに対する準備もおこたるわけにはいかない。  ちなみに、今回の戦で晏《あん》将軍は自ら、恥じて頸《くび》をはねて壮烈な最期《さいご》を遂げた。他の将兵のうち半数は、なすすべもなく捕虜になったが、それらを全員、大牙は関の東側へ放逐《ほうちく》した。 「この狭い場所に、おまえらを閉じこめておく場所はない。食わせる食料もない。好きな場所へ逃げるがいい。恥を知らないなら、何度でも攻めてくるがいい」  解放したのも、わざと神経を逆なでするようなことばを選んだのも、むろん壮棄才の指示である。改造工事に着手した関のようすや、関にたてこもった員数、装備、糧食の量まで、ほとんど手のうちを知られた状態だったが、壮棄才は委細かまわなかった。これが、 「新都の連中をおびきだす、手段です」  といって、ぴたりと口を閉ざしてしまった。  逃がされた連中は壮棄才の思惑どおり、新都へ駆けこんだようだ。そこから、巨鹿関陥落の知らせが魚支吾《ぎょしご》のもとへ届くには、何日かかかるだろう。 「先に、羅旋たちに報告が届いていればいいのだがなあ」  大牙は、関の望楼の近くに置かれた、数個の竹籠《たけかご》をのぞきこんだ。網目からは中は見えないが、小さな生物が動く気配と体温が感じられる。 「本当にこいつら、安邑《あんゆう》まで戻るんだろうか。安邑へ報告が届かなければ、俺たちはここで孤立するしかないわけだが」 「でも、信じてるんでしょう?」  片時も離れない玻理が、声を出さずに笑った。 「いえ、籠の中のものではなくて、羅旋を信じてるでしょう、大牙は」 「あいつはいい加減なところもあるが、少なくともやったことの責任はとる。俺を見殺しにはするまい。たとえしたところで、かならず仇《かたき》はとってくれるさ」 「虚言《うそ》ばかり」  玻理はまた笑う。 「生きて帰ると、信じてるくせに」 「ああ、この戦、勝つと信じてるさ」  その声の語尾が消えないうちに、 「来たぞ!」  望楼から大音声が降った。反射的に見上げた大牙の目には、まっすぐ東を指す旗が映った。 「ついに動いたか!」  大牙の身体が跳ね上がったように見えた。 「準備はいいか。手筈《てはず》どおりやれ。あわてるな、ここは勝つ必要はない。持ちこたえればいい。できるな!」  大牙の声に、さっそく持ち場に着いた将兵たちの「おう」という声が怒濤《どとう》のように重なった。 「玻理! 鳥を放て!」  男たちの声が消え去らないうちに、大牙は女の名を呼んだ。それより前に、彼女は籠のひとつに手をかけていた。  激しい翼の羽ばたきが、籠の中から聞こえていた。  漆離伯要《しつりはくよう》の軍に迫られた形で撤退した羊角《ようかく》将軍は、長塁《ちょうるい》の野で藺如白《りんじょはく》率いる〈琅《ろう》〉の本隊と合流した。方子蘇《ほうしそ》が親衛軍の将をつとめ、廉亜武《れんあぶ》が殿軍《しんがり》を受けもっている。  羊角から状況の概要を聞きとった如白は、まず、 「羅旋たちはどうした」  と訊いた。訊かれても羊角は、 「まもなく、もどってまいると存じますが」  と、答えるしかない。 「羅旋のことだ。心配は無用だろうが、どこへ、何をしに行ったか、誰もきいていないのか」  徐夫余《じょふよ》が同行していたなら、彼がかならず報告のために送られてきたはずだが、あいにく巨鹿関にいる。他に信頼できる若者も数人、羅旋の配下にはいたはずだが、 「耿《こう》淑夜どのと、何ごとかむずかしい顔をしながら話しこんでいたかと思うと、ふたりだけでどこかへ——」  という、困惑した回答しか返ってこない。もっとも、秘密にしたというよりは、緊急事態のために、ことづける暇さえ惜しんだという意味合いが強いようだが。 「五叟《ごそう》先生ならわかるかもしれぬが、あのご仁は安邑だしな」 「兵力からいえば、ひとりやふたり、どうということはないはずなのですが」  と、方子蘇が口をはさんだ。 「羅旋がいるといないとでは、士気が大きくちがってきます。困った漢《おとこ》です」 「羅旋の配下の騎馬兵は、どうしている」 「ほぼ全員、儂とともに撤退してまいりました。とりあえず、儂が指揮を執っておきましょう」  羊角の言葉にうなずいて、 「では、支度にかかるか」  如白は、明るい声とともにたちあがった。  そのひとことで不思議なことに、それまで眉を寄せていた方子蘇らの表情がふっとゆるんだ。羅旋ほどの気迫はないが、戎《じゅう》族の容貌を持つこの王は、妙に周囲の人を身構えさせない。考えてみれば、人の上に立つ「王」としては不利な特質なのだろうが、如白は気にかける風もなかった。 「〈征〉は、全力を上げてくる。長塁で、食い止めるのは、ほぼ不可能と思っていい」  不吉なことを平然と口にするのも、指導者としては失格かもしれない。ただし、その程度で縁起をかついで不安がるような者も、如白の側近にはいない。事実は事実として、正面から見すえるだけの度胸を、全員がそなえていた。 「損害を最小におさえて、次の地点まですみやかに撤退する。最悪、安邑まで戦をもちこむことになるかもしれない」 「昨年の、〈奎《けい》〉との戦の再現ですな」 「だが、〈征〉には内部崩壊は期待できぬ。逆に、昨年とちがうのは、我々の手には巨鹿関があることだ」  巨鹿関の陥落の報は、すでに如白のもとに届いていた。 「あとは、いつ〈衛《えい》〉が動いてくれるかに、すべてがかかっている。その報が来るまで、少しずつ退却しながら、持ちこたえるしかない。安邑で敗れたら、茣原《ごげん》で戦う。茣原で敗れたら——」  もう、後はない。〈琅《ろう》〉という国は、この地上から消えるしかない。かわりに琅部という戎族の部が現れることになるのかもしれないが、 「それでは、あまり意味がない。我々が中原に在ってこそ、〈征〉の非道をいいたてることもできるのだから」  羊角がうなずいた。今回も彼が、前鋒軍の指揮を執る。如白の本隊は、ここまで出てはきたが、後のことを考えて温存しておかねばならない。  羊角は、昨年から放置されている長塁の陰に、戦車を配置した。もちろん、東に向かってである。昨年、大牙が陣を布《し》いたのは、西に向かってだが、長塁自体はだだっぴろい野の中に、ただ土を盛り上げただけだから、裏も表もない。西側に壕《ほり》が掘ってある場所もあるが、どうせそんな場所を越えてくる敵はいないし、いたところで勝手に壕にころがり落ちてくれるだけだから、兵をわざわざ配置する必要はない。 「来るぞ」  戦車上で、羊角が指示を出すと、背後の旗が大きく振られた。と同時に、土塁と土塁の隙間をすり抜けて、騎馬兵が全速力で駆け出した。前方のゆるやかな斜面を、〈征〉の旗を掲げた戦車群が駆けくだってくるのが、羊角の目からも見えた。 「妙だの」  羊角がつぶやいたのは、両軍が動きはじめてまもなくのことだ。 「儂の目のせいかの。この間もそうであったが、車と車の間隔が、異様に狭い」 「たしかに」  と、羊角の車の御者が、それを追認した。 「騎馬に、車の間を走りぬけられて攪乱されないように、というつもりではありませんか」 「だが、あれぐらいの幅では、簡単に通り抜けるぞ。中途半端な幅じゃ。あの間に、壁でも作るというなら、話は別だが」  と、つぶやいてから、 「そうか、壁か」  はたと、膝《ひざ》をたたいた。 「旗を振れ、鉦《かね》(退却の合図)を鳴らせ!」  突然、そういわれても、戦車の周囲に控えている歩兵たちは理由がわからない。 「将軍!」 「壁じゃ。壁を作る気じゃ、奴らは。騎馬兵らを呼びもどせ。でなければ、餌食《えじき》になるぞ!」 「もう、遅い!」  歩兵のひとりが、指を伸ばした先では、初めて見る光景が始まっていた。  速度を落とした戦車から隣の戦車へ、なにやら飛んだ。それが細い綱だとは、羊角の位置からは見えなかったが、先頭の馬が首から地へとつっこむのはわかった。人の身体が人形かなにかのように前へ投げ出され、地面にたたきつけられるのも、はっきりと見えた。それが、一頭や二頭のことではない。  速度を出していただけに、一度、脚を取られると衝撃はすさまじいものがある。また、戦車よりは機動性があるといっても、人が踵《きびす》をかえすようなわけにはいかない。十頭、二十頭、わかっていても、低く張られた綱の餌食になっていった。  倒れた馬と人は、歩兵の獲物となる。  馬のいななきと人の悲鳴とが、羊角のところまで聞こえてくるようだった。 「何をしている! 手遅れでもよい。早く鉦を鳴らさぬか。このままでは、残った者まで全滅する」  そういっておきながら、羊角は自分の御者の手から手綱を奪いとって力いっぱいふるった。羊角の後に、前鋒軍がいっせいに続く。 「莫迦な」  戦況を知った如白らが、思わず立ち上がった。 「鉦を鳴らしておきながら、飛び出すとはどういうことだ。羊角将軍ともあろう者が、血迷ったか」 「いえ、援護のつもりでしょう。騎兵を救うためです。羅旋から預かった騎兵を、みすみす壊滅させるわけにはいきません。ですが、無謀なことにはかわりない。陛下——!」  援軍に出ようという方子蘇を、 「おろか者」  低いが、はっきりとした声で如白は叱《しか》りとばした。 「羊角の苦衷はわかるが、これ以上、ここで損害を大きくしてどうする。鉦を鳴らせ。羊角に聞こえるようにだ。我々は、先に撤退する。廉亜武! 廉将軍に伝えよ。羊角が退却してくるまでここで踏みこたえて、庸関《ようかん》まで下がってこいとな」  口早に指示を出すその断固とした口調に、叱られた方子蘇のみならず、周囲にいた人間は皆、圧倒された。如白が、これほど頭ごなしな物言いをしたのは、初めてといってよかった。 「早く、せぬか!」  赤茶けた髪と髯を逆立てんばかりに急かされて、方子蘇が真っ先に我に返った。 「急げ、伝令を急げ!」  如白の勢いがのりうつったような激しさで叫ぶと、自分の戦車に飛びのった。伝令用の騎馬兵が、あわてて後方へ走り去る。それを追うようにして、本営があっというまに撤収されてしまったのは見事といってもいいだろう。  一方、羊角の方にも騎馬の急使が走ったが、すぐに追いつくものではない。羊角の軍が〈征〉軍と接触した直後、伝令役の少年は、ようやく最後尾に追いすがることができた。 「羊角将軍! 羊将軍はどちらにおいでですか」  叫ぶ声は、怒号と悲鳴にかき消される。  この戦の中でも、羊角が戦車の隊列をある程度保っていたのは、さすがというべきだろう。雁行《がんこう》の形に数台の戦車をならべ、〈征〉軍の戦車の隊列に突入をかけたのだ。〈征〉の戦車は、綱を張るために二台が、ひと組となり並行して走っていた。その一方を、集中的に狙うよう、羊角は指示を出していた。  一台が、御者を失い制御できなくなれば、綱で結ばれたもう一台も走れなくなる。自在に走るためには、綱を切り離さなければならないという道理だった。  結果からいえば、それで難をのがれた騎馬兵も少なくない。少なくとも、羊角が突入していなければ、帰らない騎馬兵はもっと多くなっていただろう。  速さが身上の馬は、またその脚が弱点になる。転ぶと、骨折しやすいのだ。かつて、羅旋の愛馬だった追風《ついふう》という名馬でさえ、転んで脚を折り、二度と起き上がれなかった。まして、能力も体格も劣る馬たちでは、どうしようもない。  ふりおとされて、敵陣に徒歩で取り残された騎手は、〈征〉軍の歩兵たちのかっこうの餌食だった。捕らえられかけたところを、羊角指揮の戦車に拾いあげられて助かった者も少なくない。  ちなみに、〈琅〉は基本的に、戦車にはふたりが乗る。本来は三人が乗る車だから、速度は多少落ちるものの、一目散に逃げる分には問題がなかったのだ。  ただ、羊角自身は、敵陣に深入りしすぎていた。 「すぐにお戻りを。陛下の厳命です!」  と、ようやく追いついた伝令の少年が叫んだ時には、〈征〉の戦車の群れに周囲をすっかり囲まれていた。むろん、戦車に従う歩兵たちが、さらにその外を囲んでいる。 「そなた、儂にこれ以上、どうせよという」  憮然《ぶぜん》と、羊角は叫びかえした。白い髯が風になびいた。その髯の一部の色が変わっているのは、無謀にも戦車にとりついてきた歩兵を、戈で殴りとばした時についた血|飛沫《しぶき》だろう。最年長の将軍とは思えない、剛力だった。 「儂はよい。他の者らには順次、撤退するように伝えてくれ」 「将軍はどうなさいます!」 「最後の兵が逃げおおせるまでは、儂も逃げられんわい」 「将軍!」  だが、羊角が離脱しなければ、羊角の戦車に従う歩兵たちも逃げないだろうし、他の戦車も老将軍を見捨てて逃げるような真似はしない。 「将軍が逃げてくださらなければ、全滅です。どうか!」  乱戦の中で、少年はたくみに馬をあやつり、戦車のかたわらにつきまといながら懸命に叫んだ。その返答はといえば、 「ええい、うるさい。この年寄りがどこで死のうとかまわぬではないか。とっとと、逃げぬか!」  羊角とて、無駄死にをする気はないだろう。また、敢えてここで死を選ばなければならない理由は、何ひとつない。だが、この状況下で、意地になってしまったふしはあった。 「こんなことになってしまって、羅旋に申しわけがたたぬ」  というのだ。だが、それをいうなら、指揮を放棄して行く先も告げず、姿を消した羅旋の責任はどうなるのだろう、と——。  伝令の少年が、ふと思った時だった。  包囲している〈征〉軍の一角が、にわかにわっと崩れたったのだ。 「何?」  うなりをあげながら、矢が羊角の周囲を何本も通りすぎる。それがみな、〈征〉軍の戦車の御者ばかりを狙い、しかも正確に喉《のど》を貫いていたのだ。  矢は、東——〈征〉軍のいる方向から飛来した。 「誰だ——」  と、羊角らが探るような眼で望んだその一角から、黒い大柄な馬が一頭、おどり出たのだった。 「羅旋——?」  その背後にぴたりと従っているのは、これまた目立つ美しい騅《あしげ》である。 「淑夜、俺にかまうな、先へ行け!」  咆哮《ほうこう》に近い大音声《だいおんじょう》は、たしかに羅旋のものだった。その命令にしたがって、騅がつい、と前に出る。その背にしがみついていた人影が、追い抜く時に一瞬、顔を上げて羅旋を見、羊角たちの方向を見て、また顔を伏せた。たしかに、耿淑夜の顔だったが、 「怪我でもしておるのか」  羊角が自分の心配も忘れるほど、いつもの彼らしくない乗り方ではあった。  外見は優美な騅だが、淑夜の超光は体格的には月芽《げつが》と変わらない、大柄な馬だ。人ひとりぐらい、蹄で蹴り殺すぐらいは、容易だ。それを直感的に知ってか、〈征〉の歩卒たちは超光の前途からいっせいに逃げ散った。超光のあとを、今度は黒い旋風のような月芽が疾走する。  月芽の上に、半弓をひきしぼった羅旋が上体を起こし、矢を左右に撃ち分けた。羊角の見ている前で矢が尽きると、鞍につけた鞘《さや》から半槍を抜き取る。  羅旋の通る道すじは、そのまま鮮血の軌跡となった。  羊角も、黙って見ていたわけではない。淑夜がまっすぐに、こちらへ向かってくるのを知ると、戦車の向きを西へと変えた。ようやく退却する気になったかと知って、歩卒たちも、ほかの戦車も脱出の体勢になる。〈征〉軍はといえば、突然あらわれた羅旋の働きのすさまじさに、まず気を呑まれ、ついで戦意を失った。  それまで優勢だった戦を、いきなり放棄してくれるわけではないが、それでも羊角たちが逃げる態勢にはいった時、すかさず追撃をかけられなかったのは事実だった。  魔のような時間だった。  緊張の糸をふっつり切られたような、ほっと、ひとつ息を吐くだけの短い時間だったが、その隙が羊角たちを救った。〈征〉軍が気をとりなおした時には、〈琅〉軍はほとんど、包囲を脱しかかっていた。 「羊将軍!」  騅が戦車と並行した時、淑夜の声がした。 「おお、無事であったな。重畳《ちょうじょう》」 「将軍こそ——」 「どこへ行っていた。心配したぞ」 「そんな悠長なことを言っている場合か。とっとと逃げろ」  と、羅旋の咆哮がまた、鳴り響いた。 「小参《しょうしん》!」  羅旋に呼ばれて、 「はい!」  伝令の少年が、即座に応えた。 「身体を低くしろ。そっちに飛び移る」 [#挿絵(img/06_183.png)入る]  えっ、と目を剥《む》いたのは、羊角やその御者で、小参と呼ばれた少年は、慣れた風に身体を鞍の前の方に移し、馬の首筋にしがみついて小さくなった。並行して走る月芽から、羅旋の大柄な体躯《たいく》が乗り移るのは、一瞬だった。身体つきからは想像しにくい、身軽さだった。  少年をかかえこむような形で、手綱を執った羅旋はさらに、 「羊角将軍、少し速度をゆるめてくれ。淑夜を、乗せてやってくれ」  はっきりとした口調で、告げた。  いわれてから改めて見れば、羅旋が乗りすてた月芽は、羅旋に手綱の端を握られて従っているものの、息は荒く、脚も今にももつれそうだ。超光のようすも、たいしてかわりはない。淑夜が体重が少し軽い分、楽だったはずだが、いつ前へつんのめってもおかしくない。  馬の持久力というのは、案外短い。ゆっくり歩かせるならともかく、全力疾走で保つのは、約二百里(一里=四〇五メートル)から二百五十里ほどだ。よほどの駿馬《しゅんめ》で、その二倍がやっとのこと。二頭がどこから走ってきたか知れないが、その限界をとっくの昔に越えていることだけはたしかだった。  むろん、騎り手の方にも限界はある。体力もあり、馬の上で成長してきたような羅旋はともかく、身体の悪い淑夜にこの負担は、相当なもののはずだ。  それでも歯をくいしばっている淑夜の顔色をたしかめて、羊角は、 「承知!」  と、車の脚をゆるめさせた。敵の追撃が迫っているのはわかっていたが、ここで万一のことがあれば、淑夜が敵の手に陥ちてしまう。  一年前まで敵だったこの青年の、存在価値を羊角はよく知っていた。羅旋の謀士というだけではない。この〈征〉との戦の決着がつけば、次にかならずやってくる〈衛〉との戦で、〈衛〉出身の淑夜の存在は大きな鍵になるはずだ。ここで、死なせるわけにも、他国の手に渡すわけにもいかない。淑夜が、なにか大事なものを抱えこむように、胸元をしっかりと押さえているなら、なおのことだ。  ほとんど車を停止させて、馬の背から淑夜を抱き取るのは簡単だった。それまでなんとか気力で保っていた姿勢を、淑夜は腕をつかまれたとたんに崩したのだ。そのまま、襤褸布《ぼろぬの》のかたまりのように落ちる淑夜を、羊角の両腕が車の上へひっぱり上げた。老齢に似合わない剛力の羊角だからこそ、できたことだった。  超光の手綱は、護衛するように脚をゆるめていた羅旋がすぐに押さえて、後も見ずに走り出した。  廉亜武が陣形をととのえ、射手を配置して待ちかまえている長塁までは、もうすぐだった。  同じ時刻。 〈琅〉の国都・安邑《あんゆう》の国主の館で、天を見上げている少女たちがいた。 「茱萸《しゅゆ》。一日、天を見ていたからといって、知らせが早く来るわけではないのですよ」 「でも、玉公主《ぎょくこうしゅ》。着いたら、すぐわかる」 「着いたら、仕掛けが教えてくれるよう、五叟《ごそう》先生が工夫されています。危ないから、降りておいでなさい」 「茱萸」 「いや。ここで待つ。大牙さまの知らせを、少しでも早く、苳児《とうじ》さまに」  茱萸はなんと屋根の上に、揺珠《ようしゅ》と苳児は下の院子《にわ》から見上げているのだった。平屋とはいえ、人の背丈の四、五倍はある瓦屋根《かわらやね》の上には、人ひとり入るほどの木箱が乗せられ、その隣に茱萸のほっそりした身体がうずくまっている。いつの間にのぼったのか、気づいた時にはそこにいた。 「まったく、どうやってあんなところまで登ったものやら。しかも、ふだんの戎族の上衣と袴ならともかく、裳裾をつけてでございますよ。いったい、何を思ったのでしょう」  揺珠の侍女たちが騒ぎたてて、知れたのだが、女たちばかりでは屋根に上ってひきずりおろすわけにもいかない。この館の女主人たる揺珠の命令ならしたがうかと、訴えが走ったのだが、結果はまったくの無駄だった。  茱萸の直接の主人は苳児だが、こちらは自分の侍女の茱萸が、見上げるばかりの高さに上っているのを見て、 「わたくしものぼりたい」  などといい出して、揺珠にたしなめられる始末だ。  唯一の救いは、揺珠が終始おちつきはらっていて、説得にあたるのと同時に、万一の場合にそなえて、うてるだけの手をうったことだ。軒下に、馬の飼葉《かいば》を満載した荷車が数台、止まっているのも、その「手」のひとつだ。その上で、 「五叟先生は、まだおいでになりませんか?」  揺珠の問いに、侍女のひとりが、 「今、お呼びしております。しばし——」  応える声に重なって、 「あ、あぶない!」  悲鳴がわきあがった。茱萸が、その場でたちあがったのだ。 「茱萸! 立ってはだめ。座りなさい」  だが少女は、天の一点を指して大声でなにやら叫んだ。 「来た、来たよ!」  吹いていた風が、その時、少し熄《や》んだために、茱萸の叫びは揺珠のところまで降りていかなかった。 「茱萸。座って、身体を低くなさい。鳥が驚いて、巣にもどれません」  その声が届くと、茱萸の大きく見張った目がようやく下を向いた。 「もどってこない?」 「ええ。知らない人がいると、もどってきません。鳥はこの前とおなじように、五叟先生につかまえていただきますから、あなたは降りておいでなさい」  揺珠の口調は、おしつけがましくないが、どこか毅然《きぜん》とした品位のようなものがあった。ここで、頭ごなしに叱られていたら、茱萸も意地になっただろうが、理で諭《さと》されて、やっと聞き入れる気になった。ところが、 「わかった。降りる」  と、いうや、身体をのばしたまま、さっと足をふみだしたのだ。  釉薬《ゆうやく》のかかった瓦は、すべりやすい。地上ならば身軽な茱萸も、さすがにこの足場の悪い状況で、しかもさすがに下の騒ぎが目にはいって、あわてたのだろう。二、三歩踏み出したその爪先が、するりと前へすべったまま、ころころと屋根の傾斜を転がったのだ。  あっと、女たちの悲鳴が上がるが、止めようがない。それでも反射的に、数人の侍女たちが前へふみだしたのは、落ちてくる少女をなんとかして受け止めたいと思ったのだろう。幼い女主人に一途《いちず》な茱萸は、揺珠の侍女たちからも好意的に見られていたのだ。  だが、うまく落下点にはいったとしても、加速のついた人の身体を、女がうまく支えられたか、下にいた人間まで怪我をするような事態になっていなかったかは、疑問だ。  結果からいえば、女たちの手は届かなかったが、茱萸は無事だった。  用意の荷車の隙間の上へ、わざわざ選んだように落ちかかる少女の下から、突然、突風が湧《わ》いたのだ。  湧いた、としか形容のしようがなかった。泉が地面からわきあがるように、風が塵《ちり》を巻き上げながら噴きあがり、茱萸の身体をくるんで、一瞬、上へ押しもどしさえしたのだった。  風は徐々にゆるやかになり、少女の身体もゆっくりと下がってきた。人の胸の高さほどにまで降りてきた時、風は吹きはじめた時と同様、ふいに熄《や》んだ。  どさりと身体は音をたてたが、調べるまでもなく、怪我がないことは明白だった。茱萸自身は途中で目をまわしたらしく、意識はあったが、茫然として何も答えられない状態だった。 「感謝します。五叟先生」  侍女たちが、茱萸をとりかこんで水だ薬だと介抱する中、揺珠ひとりが背後をふりかえって、微笑んだ。 「やれ、なんとか間に合いましたな」  柱の陰から、五叟先生こと、莫窮奇《ばくきゅうき》老人が出てくるところだった。 「こんな左道でも、人だすけになることもあろうとは。いや、まだまだ儂も見捨てたものではないわい」 「人を救う術なら、左道ではありませんでしょう」 「いやいや、公主。左道は左道、よこしまなものにはかわりない。そういうものじゃ。おや、鳥が箱にもどりましたな」  院子が茱萸の騒ぎで手いっぱいの間に、屋根の上の箱に変化が見えていた。木箱の上に、数羽の鳥が降りたったのだ。それに合わせて、どういう仕掛けか、どこからか金属音がじゃらじゃらと聞こえはじめた。鉄の板を何枚かぶらさげて、ゆすったらこんな音になるだろうか。 「こんなうるさい仕掛けは、必要なかったな。さて、今度の知らせの吉凶はいかがやら。どちらにしても、公主——」 「早馬の支度は、させております。先生、お願いいたしますわ」  形式上、太医として〈琅〉の国主の館の奥まで大手をふって出入りするこの老人は、羅旋たちには辛辣《しんらつ》な口をきくが、女には甘かった。まだ幼い苳児に対してですら、頼まれていやといったことはない。まして、国主の義理の娘に、花のような笑顔で要請されて、 「はいはい、ただいま」  別人のような愛想のよさで応じた。  懐から笛のようなものをとり出すと、五叟は無造作に吹いた。笛は、鳴らなかったにもかかわらず、屋根の上の鳥はいっせいに首をのばし、再び天へ舞い上がったかと思うと、すぐに五叟めがけて降りてきた。  五叟の肩やさしのべた左腕、頭の上に止まったものもいる。鳥は五羽。すべて、小柄な鳩だった。 「よしよし。知らせを持ってきたか。巨鹿関からここまで、ご苦労であったな」  まるで鳥の言葉がわかるかのように話しかけながら、五叟は左腕の鳩を捕らえてひっくりかえす。かなり手荒く扱ったにもかかわらず、鳥は眠ってでもいるかのように無抵抗のままだ。その間に、揺珠が五叟の肩の上の鳥をそっと、両手でとらえた。その脚にも、五叟の手の中にも、一枚の紙片があった。 「来たか」  五叟が紙を広げて、つぶやいた。揺珠の手の中の紙片にも、同じ文章が書きつけてあった。 「〈征〉が動いた。段麒《だんき》」  の数文字のみだが、意味はわかった。  他の、三羽の鳩の脚にとりつけられている紙にも、同様の文言があるはずだ。これは、途中、猛禽《もうきん》に襲われたり行方不明になったりする鳥が出る可能性を考えた上の処置だった。  鳥は、合計十羽、同じ文章をたずさえたものを同時に飛ばすように、手配してある。  前回、大牙が巨鹿関をうばった時にも、同様に鳥が飛ばされた。〈琅〉の安邑までもどってきたのは、十羽中八羽だった。今回の数がそれを下回ったのは、この鳥の使いがどれほど困難なものかを物語っていた。  そもそも、鳩の帰巣性《きそうせい》に五叟が目をつけたのは、まだ義京《ぎきょう》で修行をしていた若い頃だという。 「どんな方術でも、遠方の者に確実に伝言をとどける方策がなくての。鳥のように翼があったらと思って、眺めていて思いついた。ところが、工夫をはじめたとたんに、師匠にどやされるのなんの。方術を役にたたなくするようなものを、考えてどうする。それでも俺の弟子かと、それはもう、ひどい怒りよう。それだけならまだ許せるが、その頃の兄弟子という奴がまた、陰険なやつでな。師匠の機嫌をとろうと、殴る蹴る——」  どこまで真実かはわからないが、とにかく長い間あたためてきた考えではあったらしい。 「問題は、鳩がどのくらい遠くからなら帰ってくるのか、帰れなくなるのかの見極めが難しかったことじゃ。一国内なら試すこともできるが、さて、巨鹿関は安邑から遠いからのう。雁《かり》かなにか渡り鳥なら、まちがいないが、あれは飼い慣らすのがむずかしい上に、春と秋しか使い物にならぬしなあ」  冗談まじりに、自慢話をはじめる五叟を、 「先生、お話はあとで。今すぐ、使者のところへこれを届けてくださいまし。叔父上さまのもとへ、一刻も早く」 「おっと、忘れるところだったわい。すぐに行ってこよう。玉公主、そんな顔をするでない。戦はすぐに終わる。儂らが終わらせてみせようぞ」 「ええ、楽しみにしておりますわ」  白い花が咲いたような微笑に送られて、五叟は飛ぶような脚どりでその場を出ていった。揺珠は身をひるがえして、茱萸の顔色をたしかめにいく。 「加減はどう?」 「心配はいりません」  答えたのは、茱萸本人ではなく、その手を握って離れない苳児だった。 「茱萸は、だいじょうぶ。でも、叔父上の方は、大変のごようすです」 「苳児さま」  揺珠の顔色が、わずかに変わった。苳児が、予言じみた物言いを時折すること、それが奇妙に的中することを、揺珠はそれとなく聞き知っていたが、一緒にすごした一年ほどの間には、そういう機会がなかったのだ。 「陛下に、何事か——」  と、いいかけて、また気がついた。苳児が叔父と呼ぶのは、段大牙のことだ。苳児も、うなずいて、 「ええ、大変なのは巨鹿関です。思惑が、外れたごようす。〈琅〉にも、東から黒い雲がおしよせてくるようです。この安邑に届くのも、時間の問題。ただひとつ、なんだか光るものもまた、安邑にむかって参ります」 「光るもの?」  思わず揺珠がくりかえしたことばに、 「ええ、きらきら、光るもの。星のように光って、尾をひいて。あれが安邑に入れば、もう心配ないのですけれど」  苳児の、孩子《こども》らしくない憂い顔は、それが困難なことだと告げているようだった。 「でも、希望はあります、まだ。だから、揺珠さま、待ちましょう」  いいながらも、東の天を見る苳児の視線は、暗かった。      (二)  長泉《ちょうせん》の野から巨鹿関《ころくかん》までの、うねうねと細い山道は、罠《わな》を仕掛けるには絶好の地形だった。前回、まだ〈奎《けい》〉が存在したころ、この関を守った大牙《たいが》は、あちらこちらで道をふさぎ、ひきこんだ〈衛《えい》〉軍の大半を始末し、大勝した。  だが、今回はおなじ方法は通じない。  敵に手のうちを読まれているのと同時に、敵を撃退すれば、ただちに自分たちもその後を追ってこの谷を出なくてはいけないのだ。道を完全にふさぐような真似はできないし、 「それだけの時間も、人手もない。しかたがない。やるだけやるさ」  と、じれて攻めよせてきた〈征《せい》〉軍にむかって、大牙はみずから城壁の上に立って、射手のひとりとして奮戦することになった。さらにそのかたわらに、赤い衣服をつけた小柄な射手がいるのを、仇士玉《きゅうしぎょく》らは見ることになる。  玻理《はり》という名で、戎《じゅう》族出身の大牙の夫人である、ということまでは仇士玉らは知らなかったが、 「あの射手がいるかぎり、むやみな力攻めは損害を大きくするだけだ」  と、仇士玉は考えた。  若いとはいっても、彼も三十代の後半、大牙などよりはよほど年配である。その分、冷静沈着で、 「青城《せいじょう》、義京《ぎきょう》には、わずかだがわが方の兵も残っている。連絡が途絶えて、今は手が出せない状態だが、巨鹿関がわが方の手の中に孤立しているのも事実。糧食にしろ、矢や武器にしろ、どこからも補給はない。早晩、物資が尽きるのは目に見えている。ここはひとつ、腰を据えて、何度も攻めかけ揺さぶりをかけ、物資を浪費させ疲れきったところを、一撃するのがよい」  どうせ、何万も兵があったところで、一時に巨鹿関に入れる数はしれている。攻城用の道具をもちこめば、関のひとつやふたつ、簡単に落ちるのだろうが、それが困難な場所にあるのが巨鹿関の強みだった。  後背の、〈鄒《すう》〉にはいっている〈衛〉の耿無影《こうむえい》の存在を強調する側近もあったが、 「動かないだろう」  と、仇士玉は断定した。 「どちらにしても、我らが新都から完全に離れてしまうわけではない。巨鹿関の入口に陣を置いて、奴らが出てこないようにし、また新都がおびやかされれば、すぐにとってかえす。距離からして、それぐらいの余裕はあるだろう」  ぬかりなく、〈鄒〉との国境の河には人を出し、渡河を見たら急使が走るよう手配もしてあった。 「どうやら、見切られたか」  と、大牙が歯がみしたのは、〈征〉が動いたと鳩を送ってから、五日後だった。攻撃の手が間遠になって、ついにこの日は一日、攻撃がなかったのだ。  もっとも、この数日間の戦で、兵は疲れきっている。大牙の焦りはともかく、将兵には願ってもない休養日となった。また、この事態は玻理の弓の腕のおかげでもあるわけで、これで彼女を見る冀小狛《きしょうはく》らの視線が、多少なりともやわらいだ。  女が戦に出る、ということ自体はさておいて、実際に男もおよばないほどの働きを見せるし、大牙の世話をさせてもかいがいしい。冀小狛らにむかって、威張《いば》るそぶりもない。素姓はともあれ、 「大牙さまには、ちょうどよい女かもしれぬ」  という評価が漂《ただよ》いはじめたのは、大牙にとっては願ってもないことだった。  だが、それと戦の趨勢《すうせい》とはまた別の話だ。 「まずいな。耿無影も動く気配がないときている。どうなってるんだ、壮棄才《そうきさい》。耿無影をひっかけて、この戦に一枚|噛《か》ませるという策はどうした」  いらいらと、噛みつくような口調で壮棄才をにらみつけたのも無理はない。  最初の攻撃があってから、大牙は城壁の上から降りていないのだ。さすがに、夜は並べた盾の陰で眠るが、次第に身体にたまっていく疲労は相当なものだ。まだ、交替で下へ降りて休んでいる兵卒たちの方が、体力的には余裕があった。大牙がここまでなんとか平静を保ってきたのは、徐夫余《じょふよ》のねばり強い説得と、常にかたわらにある玻理の努力の結果といってよい。  そこへのこのこと、壮棄才が不機嫌な顔を見せに上がってきたのだから、大牙にいわせれば、 「来る奴が悪い」  と、なる。  もっとも、壮棄才はそんなことは百も承知の上だったらしく、 「私の策に、まちがいはありません」  表情のない顔に、抑揚のない声で告げた。反論ならまだしも、なにかはねつけるような口調が、大牙の気にさわった。 「そうか。では、この状況をなんとする」 「まだ、時が熟していないだけです」 「時だと、熟すだと」  と、大牙は眉《まゆ》をつりあげたが、壮棄才はいっこうに動じない。気が荒く人づかいも激しい羅旋に、何年もしたがっているこの男が、大牙ごときの脅しにのるはずがないのは、わかっている。だが、大牙はいらだちを誰かにぶつけなければ、気がすまなかった。 「けっこう。では、それはいつだ。明日か、明後日か、一年後か、十年後か」  と、口早に迫ると。 「明日」  即答が返って、大牙は声を詰まらせた。 「なんだと」 「明日に、〈衛〉は動くでしょう。それは確か。それ以降、どう事態が流れるかは、〈衛〉の耿無影の頭の中にかかっていますが」 「理由は」  と、さらに大牙は詰めよったが、壮棄才は踵《きびす》を返して、さっさと降りていってしまった。ここに淑夜《しゅくや》か五叟《ごそう》先生がいたら、東南の天を示して、解説しただろう。  夕刻だというのに、東南の天が赤かった。正確にいえば、西の夕焼けが東に低くかかった雲に反射して、西よりも紅く輝いていたのだ。 「雲気じゃよ」  と、五叟先生ならいっただろう。  その下に在るはずの城市《まち》や軍の、人の気や車馬のたてる塵などが、雲となり空模様となって現れることを雲気という。その高さや形で、下の状態を読むことを、望気術《ぼうきじゅつ》という。方術のひとつと数えられているが、まるきり根拠のないことでもないのだ。  不自然に紅い夕焼けは、その下で人馬が激しく動きはじめたという証拠だった。  五叟老人は望気術に巧みで、淑夜も多少、習っている。それは大牙も知っていたが、この壮棄才もそういう余技を持っているとは、知らなかった。 「あの野郎」  手にしていた弓を、背中からなげつけかねない大牙のようすに、徐夫余と玻理がさりげなく両脇に立った。  もっとも大牙にも自制心のひとつふたつ、持ち合わせはあり、 「明日、動かなかったら、貴様に責任をとってもらうからな!」  と、罵声《ばせい》を浴びせるだけで我慢した。  壮棄才は、降りかけの梯子《はしご》からちらりと大牙を見上げたが、そのまま知らぬ顔で降りきってしまった。怒鳴られた方としては、こういう反応しかしようがないと思うのだが、大牙はまた、それにも腹をたて、 「あいつには、耳がないのか」  毒づいたところを、徐夫余が腕をわしづかみにした。 「何を——」 「何をするのだとは、私の方がうかがいたいです」  ふだんから腰が低い上に、もとはといえば〈奎〉の庶民で、段《だん》家の公子である大牙に対しては特別の敬意を示していた徐夫余が、こういう風に人の身体に手をかけるのは、めずらしいことだった。しかも、その表情が堅くこわばっているのは、めったに見られないことだった。 「なにを、いらついておられます」 「俺はなにも——」 「いいえ、焦っておられます。強いていえば、功を急いでおられます。思うように事が進まないのは、これが初めてではないはず。なぜ、それを他人のせいになさいますか」  大牙は、徐夫余の腕を振り払って、 「無礼だぞ」 「ならば、先ほどの壮棄才どのへのことばは、無礼ではないとおっしゃいますか」 「俺は、疲れている。その俺の、言葉じりをとらえて、揚げ足をとる気か」 「疲れておられるのは、自業自得。下でお休みくださいと、何度も申しあげました。それを断られたのは、ご自身でしょう」 「俺には、この関を守りぬき、その上で討って出るという責任がある。配下の将兵を働かせて、のうのうと楽な場所で寝ていられるか」 「それは、戦の場合です。戦がない時に、将が休んでいても、だれも文句はいいません。そのために、物見の兵がいるんですから。ご自身でなにもかも責任を背負いこみ、それで身動きがとれなくなって八つ当たりをするのは、やめてください。〈奎〉の段大牙さまは、そんな方ではなかったはずです」  徐夫余のことばは、理路整然としていた。ことば自体は粗野だが、まっすぐで反論の余地がなかった。  いいかえそうとして、懸命にことばをさがす大牙の腕に、今度は玻理が手をかけた。 「この人のいうとおり」 「玻理、おまえまでなにを」 「大牙は、焦っているわ」 「何を焦っているという。俺は、今さら」 「王になる気はない? それは、知っている。でも、〈琅〉で一番の将軍になろうと思っているわ。羅旋より、えらくなろうと思っていることはない?」  玻理の含み笑いを、徐夫余がうなずいて援護した。 「俺は別に、奴を押し退ける気など——」 「それも、知っている。悪気があると、いっているのじゃない。ただ、どうせ〈琅〉の人になるのなら、一番の手柄をたてて、早く人に自分の力を認めさせてやろうと、思っている。そうじゃない?」 「玻理」 「わかっているつもりです、大牙さま。冀《き》将軍や〈奎〉の旧臣のかたがたの立場のことも、考えておられるのでしょう。この戦で功績をあげれば、皆さんも肩身が広くなると。それで、無理に無理を重ねておいでなのです。ですが、弦を張り過ぎた弓は、折れるものです。壮棄才どののいうとおり、本当に明日、〈衛〉が動くのなら、なおのこと。今夜は、下でお休みください。壮棄才どのには、今夜のうちに詫《わ》びて、あとにしこりを残さないでください。お願いします」 「——わかった」  と、大牙がうなずくまでには、しばらくかかった。西の夕焼けも東の反射も、色は薄れかけ、星が輝きはじめていた。 「悪かった。たしかに焦っていた」  低くつぶやいた大牙に、そっと玻理がよりそった。 「淑夜がここにいたら、同じことをいってくれたと思う。羅旋なら、きっとそれに耳を傾けたはずだ。なにより、士羽《しう》兄者が生きていたら——。俺は、あのふたりに器量で負けたくないし、地下の兄者に叱られたくもない」  ほっと、徐夫余は肩で息をついた。 「それでこそ、〈奎〉の段大牙さまです」 「壮棄才に、ひとこといってくる」 「あたしも、行く」  と、玻理が先に大牙の手をとった。 「いっしょに行こう。あたしも謝る」 「おまえは悪くないのだから、謝る必要はない。ひとりで行ける。いいから、ひとりで行かせてくれ」  玻理の手をふりきって、逃げるように降りていってしまった。  ——ひさしぶりに、地面に背をつけて大の字になって眠った大牙は、翌朝、玻理の手で揺り起こされた。 「動いたか!」  と、跳ね起きた彼は、しかし、そこに玻理の不安そうな表情を見ることになる。 「壮棄才が、謝りにきているわ」 「なに?」  ゆっくり眠るといっても、大牙だけが特別、やわらかな牀《ねだい》で寝たわけではない。天幕の床に藁《わら》をしき、衣服はつけたまま布一枚かけてのごろ寝だから、身支度は早かった。天幕のたれ幕をいきおいよく跳ねあげて飛び出した、すぐ目の前に壮棄才はいた。しかも、地面に正座し、拳を膝の上でにぎりしめている。 「どうした。〈衛〉が動いたのではないのか。すぐに追撃を、仇士玉を叩かねば——」 「誤算が生じました」  そういわれても、しばらくは寝起きの頭にことばがうまく染みこまない。 「誤算?」 「たしかに、〈衛〉は動きました。今|払暁《ふつぎょう》前、河を渡って〈征〉国内に侵入いたしました。ですが——」 「だが、なんだ」 「行き先は、新都ではございません」 「どういう意味だ」  すぐに事態がのみこめないことに、大牙は自分でいらついた。よほど疲労がたまっていたのだろう、一夜休んだために、かえって頭の回転が鈍くなったようだ。こんなことなら、緊張の糸を切るようなことをしなければよかったと、後悔した。  だが、これは大牙のせいばかりではなかった。壮棄才ですら、意外な成り行きに彼らしくもなく愕然《がくぜん》となっており、従来の無口も重なって、的確に状況説明ができなかったのだ。  たすけに入ったのは、玻理だった。 「物見からの知らせよ。〈衛〉軍は、河を渡ってから、進路を東へとった。新都を横に見て、下流の城市を狙う気ではないの」 「新都に——目の前にぶらさげられた餌に、食いつかなかったのか」  大牙の頭にも、ようやく血がめぐりはじめた。 「みすみす、あれだけの城市ががらあきになっているのに、捨てて、他へ向かったのか」 「そのとおりです。仇士玉は軍を新都へもどしましたが、我々が出ようとすれば、すぐに谷の入口を固める構えです。つまり」 「釘づけか」  ぎり、と大牙の歯が鳴った。 「俺たちも、仇士玉もそれぞれの位置に釘づけにしておいて、自分ひとりが利を拾う気だ、耿無影は」 「してやられました。申しわけない」  壮棄才が、額を地にすりつけるように頭を下げた。  無影の機嫌が、めずらしくよいことに、側近の者らはほっと胸をなでおろしていた。 〈鄒〉の国都で、長い間、新都と巨鹿関の動静を細大もらさず探りつづけ、ようやく、ここぞという隙を見いだしたのだ。渡河も無事に終えた上に、主君の機嫌も悪くないとなれば、長い間の労苦もむくわれるような気がするから不思議なものだ。もっとも、耿無影はこういう時、口に出して人をねぎらうような人物ではなかったが。 「それにしても」  と、百子遂《ひゃくしすい》が無影の目の届かない場所で、つぶやいた。 「めずらしいことだ。あの方が、即座に恩賞を与えるとはな」  彼は、今は〈鄒〉一国を任されている百来《ひゃくらい》将軍の、遠縁にあたる。伯父と呼んでいるが、ほんとうは再従兄弟《またいとこ》の子かなにかにあたるはずだ。百来には子がなく、子遂も早くに父親を失って百来の手もとで育ったために、伯父甥《おじおい》と呼びあってすませてきたのだ。 「この甥を、お連れくださいますよう」  と、百来が無影に申し出た時には、驚いた。長い間、伯父のかたわらにあって、伯父の命じるままに動いてきたから、他の人間に仕えることなど考えたこともなかったのだ。  だが、百来は子遂には反論を許さなかった。その上で、主君である無影にむかっても、 「わしはすでに老齢、しかも〈鄒〉の守りもあり、従軍することがかないませぬ。この甥めを私のかわりに、お連れくださるよう。でなければ、〈鄒〉からお出しするわけにはいきませぬ」  そう力みかえる百来に、しかし、 「好きにするがよい」  おどろくほどあっさりと、許可はおりた。百来の願いを容れたというより、どちらでもよいといった冷めた口調だったが、とにかく以後、子遂は無影のかたわらに控えることになったのだった。 「よいか、陛下は気むずかしいが、諫言《かんげん》には耳を傾ける人間だ。自分がまずいと思ったら、恐れずに進言することじゃ」  百来は、出発前の甥に、くどいほどいいふくめた。 「状況が悪くなったら、すぐに撤退するよう進言せよ。陛下の判断に、ひきずられるでないぞ」 「しかし、伯父上——」  子遂の目から見ても、だれにいわせても、耿無影はこの中原で現在、五本の指にはいろうかという策士である。彼の判断に、まちがいがあろうはずがない。子遂は、伯父のもとで実戦の経験は豊富だし、行政の方もなんとか、無難にこなすことは覚えたが、戦略戦術となると不安がある。  無影と子遂と、どちらの判断が正しいかという事態になれば、当然無影の方が深く考えているはずだ。 「そうかもしれぬ。だが、素人の直感の方が正しいということもあるのだ。だいたい、今回のこの動き、わしには納得できぬ。陛下は〈琅〉の策にかかったふりをして、裏をかくつもりだろうが、軍を動かして〈征〉国内にはいるということ自体、〈琅〉の手にのせられていることにお気づきでない。策士、策におぼれるとはこのことじゃ。わしなら、この機に〈琅〉を攻めておくのにな」  そのくせ、 「ですが、伯父上。機に乗じて領土を増やすのなら、〈征〉でも〈琅〉でもおなじことではないですか」  子遂がすなおな意見を述べると、 「おまえのような若輩《じゃくはい》には、まだわからぬ」  と、矛盾したことをいった。  ともあれ、子遂は耿無影の本営付きとして河を渡り、無影のいつにない上機嫌を目撃したのだった。  無影の上機嫌にはいくつか理由があったが、最大のものは、 「まんまと〈琅〉の裏をかいてやった」  という点だろう。  無影が〈鄒〉へ、ほとんど単身で来た後、国都・瀘丘《ろきゅう》へ〈琅〉の使者がやってきた。面識もなく、名も聞いたこともない男だったために、無影は使者を瀘丘にとどめて、書簡だけを〈鄒〉に運ばせた。  書簡を開けてみて、会わずにすませてよかったと思った。  書簡の内容は、簡単なものだった。 「よんどころない事情で、〈征〉と一戦まじえることとなった。これは〈征〉と〈琅〉との戦で、貴国にはかかわりがない。無用の手出しをして、わが国に恩を売るような真似はしないでくれ。また、〈征〉に味方するような真似も、避けてもらいたい」  もっともってまわった表現ではあったが、要約するとこの程度だったろうか。  協力要請でないところが、無影を笑わせた。手出し無用と念をおすことで、策士の無影の猜疑《さいぎ》と注意を喚起《かんき》し、やがて〈征〉にできる隙に乗じさせようというのだ。 「なめてくれたものだ。いや、俺の性格をよく知っているというべきか。さすがは——」  いいかけて、そのあとに続くべき名をのみこんだ。  昨年、〈奎〉が滅亡し、しばらく淑夜の生死が知れなかった時のことを思い出したのだ。そのしばらく前から、〈奎〉は密約の相手であり、〈奎〉王の謀士である淑夜は敵対する相手ではなくなっていた。だが、無影はまるで、たちはだかっていた壁が突然なくなったような、無力感と焦燥を感じて、いてもたってもいられなかった。まもなく、〈琅〉に捕らえられているという報が、尤《ゆう》家を通じて入り、〈琅〉の赫羅旋《かくらせん》の正式の謀士として迎えられたと聞いた時には、無影もまた生き返ったような気がしたものだ。 (これで、心おきなく戦える)  淑夜が、頭を下げて戻ってきてくれるのが理想だが、それはかないそうもない。たとえ〈衛〉へ戻ってきたところで、別の問題が生じるだろう。敵対する相手というのは、次善の関係だった。  今回のこの使者の書簡には、淑夜が関与していることは、疑いの余地がなかった。ならば、と無影は思ったのだ。  全知をかたむけて、この挑戦は受けてやると。そして、淑夜を悔しがらせてやろうと。  使者が来るまでは、無影も新都に狙いをつけていた。〈琅〉が巨鹿関へ出てくるのは予想がついたし、それを押さえにいくのは新都の兵だ。新都の守備が漆離伯要《しつりはくよう》から仇士玉に代わったと聞いては、なおのことだ。  策士気取りのくせに隙だらけの漆離伯要は、無影にとっておそろしい相手ではない。だが、小細工をしてくる漆離伯要よりは、仇士玉の方がはるかに扱いやすい。仇士玉が新都にしがみついているようなら、無影の方から工作して、巨鹿関へ追いこもうかとさえ、考えていたほどだ。  だが〈琅〉の口上を読んで、気が変わった。 「新都をとるふりをして、その下流域の城市《まち》を押さえる」  新都ほど決定的な要地ではないが、それでもうまくすれば五城、悪くても二城は攻め落とせるだろう。  これは、今後〈征〉と交渉する上で、大きくものをいうはずだ。どさくさまぎれに奪った城市を、恩きせがましく返してやることで、引き出せる利益はいろいろとある。 「あとは、どこまで〈琅〉が善戦するかだな」  新都から見て真東にある城市は、楽南《らくなん》といった。城壁はとりあえずあるが、規模としては邑《むら》とよんだ方がいいような城市だった。当然、守備兵もろくにそろっておらず、城市の住民はあっさりと〈衛〉に降伏した。  無影は、そこにはやはりわずかな兵を駐留させて、次の汝陽《じょよう》をめざした。こちらはかなりの人口を擁する城市であり、この城市を流れる川は、瑤河《ようが》に流れこむことから、この地方の交通と商業の要地ともなっていたため、それなりの抵抗が予想された。  ところが、こちらもまた〈衛〉軍が攻城用の梯車《ていしゃ》を目の前で組み立てはじめると、降伏の使者が城門に現れた。 「〈征〉はここ数年、戦続きでございます。徴兵の厳しさはもちろん、農民からの食料、商家からの税の取立は、それはもう惨《むご》いものがございました。それでなくとも戦で行き来が妨げられて、わしらは商売ができず、婦《おんな》子供の衣服まで売り払って、税を払った者もいる始末。——〈衛〉は〈魁〉の王さまが亡くなって以来、大きな戦はないし国の中も落ち着いていて、商売もしやすいとうかがっております。どうか、わしらを受け入れてくださいまし。わしらを、救ってくださいまし」  代表者とおぼしき老人が、伏し拝むように口上を述べた。  実際、城内に備蓄食料はほとんどなく、立て籠《こも》って戦える状態ではなかった。 「春ですから、城外にいけば野草もございますし、獣を採ってくることもできましょう。ですが、そうやって、収穫期まで食べつなぐのがやっとのこと。徒食《としょく》して戦に専念するような余裕はございませんわい。まして、収穫期まで田や畑が無事かどうかの保証まで、〈征〉の王さまがしてくれるわけでなし。わしらは、もううんざりしておりましたのじゃ」  城市一番の商家の当主だという老人は、そんな表現で、自分たちの主君を見限った。 「〈衛〉王さまのなされようは、尤家の者らからうかがっておりました。少なくとも、わしらを見殺しになさるような方でないとも、聞き及んでおります。よろしければ、近隣の邑や城市《まち》に人を遣《や》って、無用の抵抗をやめてこちらさまに従うよう、ふれさせましょうが、いかがでしょうか」 「好きなようにするがよい」  無影も、そういう形で、彼らの投降を認めた。  老人の口上を、そのまま信じたわけではない。老人の態度には、新しい支配者に対して迎合《げいごう》しようという気配が、ちらちらと見え隠れしていた。〈征〉の支配に対する不満、反感というのは事実だろうが、口先ひとつで自分たちの財産や人命が保全されるのなら、それに越したことはない——というのも、彼らの本音だ。  それが悪いとはいわないが、そうやって人を見捨てた者は、都合が悪くなれば新しい支配者もあっさりと裏切るだろう。  無影は、自分が為政者としてはかならずしも適格だとは思っていなかった。自制はしているが、結果を急ぎがちなことも、現実と合致しない理想を抱えこんでいることも、自覚している。  無影の究極の理想は、ひとことでいえば、能力のある者が身分を問わず国政に参加し、国を動かしていける国だった。身分の壁に阻まれて逼塞《ひっそく》していたころに、そう思ったのだ。彼のような身分の者が、合法的に廷臣か官吏《かんり》となれて、国政の端にでも連なれるような制度があればと。それがあれば、無影は簒奪《さんだつ》など企まなかった。  自分が為政者だったら、こうしたのにと願ったことを、その立場になった時に実現しようとした無影は、理想家だったともいえる。  才能のある者が廷臣となり、国政に参与すれば、王の果たすべき責務も軽くなる。なにもかも王が考えを決定するのではなく、廷臣たちに諮《はか》った上で、よいと思われる意見を採用すればよいのだ。重大でない件は、廷臣たちの決定に任せ、王は認可するだけにしてもよい。  最終的には、王などという存在がなくても、国を動かすようなことができないかと、無影は漠然《ばくぜん》と考えていた。おのれの現在の地位をおびやかすようなことを考えるのも、妙な話なのだが、もし真に優秀な人材を常に供給できる制度と環境がととのうなら、無影はいつでも退位する気はあったのだ。 (どうせ、不正な手段で手に入れた地位だ。未練はない)  ただ、彼が人材発掘のために力をいれた学舎から、思うような人物が出てきていないために、無影はいまだに王の地位にとどまっているだけなのだ。  無影の本心を聞けば、汝陽の、この老人はどう反応するだろう。明日から、おまえたちの手で城市をとりしきってみせろといったら、きっと驚くだろう。そして、ふたたび〈征〉に走るだろう。それは、どこの国も軍も、彼らを庇護《ひご》してくれなくなるのと同義なのだ。 「——まあ、いい」  ひとりごとのように、無影はつぶやいた。理想はあくまで理想なのだ。実現することなどないことも、残念ながら彼は知っていた。現実と妥協することも。 「使者の件、許可しよう。敵対せず開城した城市は、一年間、税を免除すると伝えてやるがよい」 「ありがとうございます。皆、きっと喜んで、〈衛〉にお仕えすることでしょう」  老人は、満面に喜色をうかべて下がっていった。 「よろしいのでしょうか」  かたわらに控えて、交渉の一部始終を見守っていた子遂が、汝陽の代表も今回従軍してきた将軍たちもほぼ下がったころを見計らって、おずおずと無影に声をかけた。  無視されるかと思ったが、意外にも無影は低い声で、 「こんなところから絞りとる税など、たかが知れている」  吐き捨てるように応えた。 「いえ、そうではなくて」 「そなた、百来の甥といったな」  子遂の質問を無視して、無影は逆に無関係な質問を発した。 「はい——いいえ」 「どちらだ。はっきりせぬか」 「遠戚にあたります。同族にはまちがいありませんが」 「遠戚か」 「はい——あの」 「なんだ」 「俺——いえ、私が申しあげたいのは、帰国しなくてもよろしいのかと」  いいながら、首をすくめた。伯父のことばが念頭にあったために、つい思ったままを口にしたが、二城を落としただけの帰国というのは、論外だろう。  何も知らないくせに、さしで口をたたくとうとまれては、伯父の立場も悪くなってしまうと気づいたが、もう遅い。  だが、無影は冷たい視線を送ったものの、 「もどった方がよいと思うか」  冷静な声で、問うた。 「二城は、手に入りました。あの調子では、さらに労せずしてこのあたり一帯の城邑が、〈衛〉の版図にはいりましょう。ですが、ここから〈衛〉に戻るとなると、ひきかえして新都のそばを通るか、ずっと下流で瑤河を渡るかしかありません。ここは、〈衛〉からは孤立した地です。ならば、長居をする必要は——本国を長く離れるのは、得策ではないと思います」 「一理、ある」  無影のくちもとに、冷ややかなものではあるが満足そうな微笑がうかんでいるのを、子遂は見たと思った。 「一理あるが、躬《み》はもう少し、ここにとどまる」 「それは、なぜ」 「まず、おのれで考えてみよ」  無影のくちもとが、さらに満足そうに開いた。 「おのれで考えた上で、なお、躬に反対するなら申すがよい。百来に免じて、いつでも耳は貸そう。躬を説得できたら、その時は軍を返そう」      (三)  段大牙《だんたいが》の、巨鹿関《ころくかん》からの知らせが、庸関《ようかん》に在る〈琅《ろう》〉王・藺如白《りんじょはく》以下のもとへもたらされたのは、〈衛《えい》〉が渡河して東へ向かってから三日後のことだった。  鳩がもどるまで二日、安邑《あんゆう》から庸関までは一日を費やした。巨鹿関から庸関まで、馬を乗り継ぎながら走っても、下手をすれば五日、この情勢では最低でも七日はかかっていただろう。 「まずまず、成功じゃな」  と、使者とともに安邑から馬をとばしてきた五叟《ごそう》は鼻を高くしたが、如白たちはそれどころではない。 「『耿無影《こうむえい》が、新都を捨てて下流域の城市を攻略にかかった。巨鹿関を出られない』。これは——」  さすがに絶句した。 「目算《もくさん》が、狂ったか。さすがは耿無影、我々の思うとおりには、動いてくれなんだな」  と笑う五叟に、さすがに冷ややかな苦笑を如白はもらした。 「先生は、気楽でよい。我らはここで、〈征〉と戦って滅びるかもしれぬというのに」 「安心なされ。儂《わし》とて、御身《おんみ》らが負ければ行くところもなく、たちまちのたれ死にじゃわい。戦の具合は、どうなっておる」 「庸関までひきつけたまでは、去年と同じだがな」  と、五叟の質問をひきとったのは、羅旋《らせん》だった。  ——長塁《ちょうるい》の野の戦で、突然戦場にあらわれ、羊角《ようかく》将軍を救出して退却したあと、当然のことながら羅旋は、非難を浴びた。 「少数とはいえ、一軍をあずかる身が、後事を託す者も指名せず、指示も明確に出さずに行方をくらまし、長い間連絡を断つとは何事か。本来なら、問答無用で軍法に照らして処断するところだが、特別に弁明の余地をあたえよう」  庸関になんとか落ち着くと、すぐに本営とした家の一室に呼び出されての糾弾《きゅうだん》がはじまった。先鋒は、方子蘇《ほうしそ》である。彼の追及は理《り》にかなっていて、これではさすがの羅旋も言い逃れはきくまいと思われたのだが、 「——いい置いていったはずだが」  と、羅旋はけろりとした顔でいったのだ。 「捜し物があるので、淑夜《しゅくや》を連れていく。あとは羊角将軍の指揮下に入れと。たしかに、指示して行ったはずだぞ」 「だれも、そんなことはいわなかったぞ」 「だが、指示しなければ、何故、羊角将軍のもとに集結できる。でなければ、安邑まで一気に逃げ帰った奴がいても、いいはずだ。負傷した者以外、脱落者はなかったはずだが」  いわれてみれば、そのとおりなのだ。方子蘇らが、うむと返答に困る間に、しかし羅旋は、 「悪かった」  あっさり、先に謝ってしまった。 「何か一筆、文書を持たせればよかったんだな。ただ、それが下手に〈征《せい》〉軍の手に渡った場合のことも考えたし、口頭で伝えることに、俺は慣れていた。連中は俺の指示に従ったから、それ以上の説明はいらないと思ったにちがいない。まちがいなく、羊将軍が預かってくれたわけだしな。今度からは、かならず文書にする。悪かった」 「もう、よかろう」  と、口をだしたのは、羊角である。今回、もっとも危ない目に遭った彼にそういわれては、方子蘇の立つ瀬はない。 「よくはない、ご老体。だいたい、何をさがしに、どこまで行ったかの釈明が、まだないぞ。この非常時に、戦列を離れるほどの大事かどうか、我らを納得させられるか」  別に、方子蘇も羅旋にふくむところがあるわけではない。ただ、彼なりに理非を正そうとすると、こういう詰問になるのだった。羅旋もそれを承知の上で、 「淑夜、あれを」  ふりむいて、うながした。  羊角の戦車に倒れこんだ時には、息も絶え絶えで、それ以後、淑夜は丸二日、眠りこんだ。人事不省の彼を、羅旋は荷車にくくりつけて運ばせた。目醒《めざ》めてからも、しばらくは物もいえない状態が続いていたのだ。体調からいっても、羅旋配下という地位からいっても、如白の御前での会議になど出る資格はないのだが、それを羅旋が如白の許可をとり無理に同席させていたのだ。  まだ、顔色は悪かったが、淑夜の背筋はぴんと伸びていた。羅旋にいわれて、ふところの中に手をつっこみ、拳《こぶし》大の襤褸《ぼろ》の塊をとりだす。そのまま、羅旋に渡そうとしたが、羅旋が目顔で示したので、投げ出した左膝の上で包みをほぐしはじめた。  中からころがり出たのは、黒い土塊《つちくれ》。それを、一同の好奇の目の中でゆっくりとほぐしていくと、中から白い物が少しずつ出てきた。堅そうなそれは、土を落とすにつれて滑らかな肌を見せていき、最後には小さな印の形となって淑夜の手の上に載った。  白い玉製の、ちいさな印だった。 「まさか」  最初に、その正体に思いあたったのは、如白である。 「御璽《ぎょじ》か。〈魁《かい》〉の玉璽《ぎょくじ》か、段大牙どのが保持していたという」 「印面をお改めください」  淑夜はその場を動かずに羅旋に渡し、羅旋が膝を進めて如白の目の前に置いた。 「『受命於天《じゅめいおてん》』。〈魁〉から伝わった玉璽だ。段大牙が、昨年、出兵するにあたって、安全のために〈容〉の国都近くにひそかに隠した。場所を知っていたのは、大牙とこの淑夜と、望津《ぼうしん》で死んだ夏子華《かしか》のみだった。大牙を迎えに行った時に、その話を聞き出し、機会があればとりに行く旨《むね》、言い渡してある。淑夜を連れていったのは、正確な場所へ行って、すぐに引き返して来られるよう。俺自身が行ったのは、今、月芽《げつが》と超光《ちょうこう》以上に速い馬は、〈琅〉にもいなかったからだ」  迅速《じんそく》を第一に考えると、自分たちが行くより他なかったと、羅旋は主張した。方子蘇も、それには反論しなかった。  如白が、めずらしく顔を紅潮させて、 「昨年、大牙どのを捕らえた時に、何ももっていなかったので、そのまま追及しなかった。場所を聞き出したところで、〈容〉の国内ならば取りにいきようもないからだ。どうせ、魚支吾《ぎょしご》にかっさらわれたと思っていた。御璽の権威に頼る気もなかったから、それでよいと思っていたが」  印をとりあげ、その重みをたしかめる。 「段大牙は、それを好きに使ってくれといっていた。ただの印だが、使い道はいろいろとあるはずだとな。少なくとも、魚支吾の手に落ちて悪用されるよりましだとも、いっていた」 「ありがたい」  如白は、玉璽の四隅の一角が、かすかに欠けていることを確かめて、軽く黙礼した。これが、どういう経緯で欠けたか、如白は知っていた。あっさりと手放した大牙への感嘆と、ここへこれをもたらしてくれた者への、素直な感謝とがこめられていた。 「有効に使わせてもらおう。大切に、な」  如白は、これを懐に敵陣を突破してきた淑夜に向かっても一礼して、印をおさめた。羅旋への追及も、それで一段落ついたのだった。  だが、事態は印ひとつでどうにかなる問題ではなくなっていた。〈征〉は、長塁の野を押さえると、そこで軍を再結集した。さらに魚支吾が本営を移してくるに到って、 「やはり本気か、あの男」  羅旋が、吐き捨てるようにつぶやいた。 「ひょっとして、北方諸国を押さえただけで満足してくれないものかと、期待していたんだが、なあ」 「大牙が巨鹿関から出られないのが、響いていますね」  と、淑夜が応えたが、すぐに、 「あ、いや。日数からいって、まだ〈征〉軍にはあちらの情勢は、届いていないでしょうね。どうします、情報を流してみますか。新都は無事でも、無影が国内に侵入したんです。少しはあわてるかもしれない」  庸関には、城壁とよべるようなものはない。人の頭より少し高いぐらいの土塁が、ようやくその役目をはたしている。その土塁の頂上にのぼり、ふたりは東の方向をながめていた。  陽は、ふたりの背後に沈みかけている。夕暮れにはまだ早いが、風はさすがに冷たくなっていた。 「いや。それで、魚支吾に腹をくくられたら、かえってまずい。新都は、要地でもあるし、魚支吾の面子《めんつ》もかかっているが、新都の下流域はそれほどの価値はない。しかも、とってかえせばすぐにでも取り返せる。だが、これほどの遠征——しかも親征となると、そう何度もできることじゃないからな」 「かといって、庸関は守るには難しい城市です。去年、それは思い知っています。去年の手を、もう一度、〈征〉に仕掛けるわけにもいかないでしょうし」  昨年、羅旋たちは退却をしたと見せて庸関に大牙の〈奎〉軍をさそいこみ、城市の各処に罠《わな》を仕掛けた。ぼや程度の火事では、たいした打撃は与えられなかったが、結束力の甘い〈奎〉軍の動揺をさそうことはできた。決定的なものではなかったにしろ、遠因となったことは事実だ。  だが、それはもともと大国である〈征〉には通じないだろう。ことに、〈征〉は命令系統がしっかりし、上から下への統制がとれている。こういう場合、動揺があっても上の者の命令一下、おさえこむことも可能だ。 「当然、手は読まれているだろうしな。これはやはり、正攻法しかないか」  低く、羅旋は舌打ちした。  正攻法と簡単にいうが、起伏の少ない〈琅〉の国内では、拠《よ》って戦える地形が少ない。庸関を放棄するのはいいが、そのあと安邑までの間に、〈征〉軍を食い止められる地点はごくわずか、しかも、絶対的に有利というわけではない。それを、頭の中で数えながら、羅旋はつぶやいた。 「奇計をしかけたとしても、どれだけ魚支吾に——いや、絶対的な数に通じるか。倍と半分では、なあ。しかも、馬の足を封じられては」  淑夜はそれを聞くと、 「あれは、別に封じられたわけではないと思いますが」  不思議そうに応えてきた。 「しかし、おまえも見ただろうが。綱をああいう風に張られては、あぶなくて仕方がない。馬を戦車の中へつっこませるのは——」 「なら、つっこませなければいいんですよ」 「と、いうが、な」 「綱は、二台の車の間に張られます。ということは、車の機動性もそれだけ落ちるということです。それでなくても、小回りのきかない車がそうなったら、馬に比べれば動けないのも同然。なら、近寄る必要はありません。遠回りにまわりこんで、背後から矢をいかけてやればいいんです。騎射の腕なら、こちらの方が上でしょう。たとえあちらの方が強弓でも、馬の速度で移動する標的に、正確に当てられる者は少ないと思いますよ。こちらは、その逆です」 「それは、そうだ」 「馬は、万能ではありませんが、いずれ戦車にとってかわるほどの戦力になると思いますよ。——それはそうと、念のため訊いておきますが、羅旋」 「なんだ」  淑夜のあらたまった口調に、羅旋は思わず身構えてしまった。 「〈征〉の誰だかが考える程度のことを、私が去年、思いつかなかったとでも思ったんですか」  馬で一撃を与えてくる〈琅〉軍に対して、土塁を築く以上の手を打たなかったのは、初戦はその手で馬を封じられても、二度目からは通用しないとわかっていたからだという。淑夜か大牙が全権をにぎっていれば、一戦かぎりの使い捨てにもできただろうが、下手にその策で勝ってしまうと、他の国主たちが固執《こしつ》してかえって次で損害を大きくする。そこまで考えて、敢えて淑夜は大牙にもそれを話さなかったのだった。  侮辱だ、といいたげな、淑夜の不満そうな表情に、 「——そういえば、そうだ。いや、悪かった」  羅旋は苦笑して、ごまかすしかなかった。淑夜もそれ以上、追及はしなかった。その程度で、味方に倍する敵を全員、追い返せるとは思えないからだ。 「と、すると、やはりここで踏みとどまって、できるところまで戦うしかないか」 「頼みは、〈征〉軍の士卒の疲労でしょうね。連年の戦の上に、この距離の移動です。歩卒の中に里心のついている者も多いはずです。そのあたりを利用できないかと、思ってるんですが」 「やらないよりは、ましだが——悪いが、しょせんは小手先の工夫でしかない。なにか、この状況を一気にひっくりかえす方法は、ないものかなあ」 「ひとつだけ、ありますが」  いいさしておいて、淑夜はそこで口を閉じた。口もとを引き結んで、ことばを封じこめるような表情を見せた。 「なんだ」 「怒りませんか」 「話にもよるが」 「——暗殺」 「おい」  羅旋は怒る前に、淑夜の表情をうかがった。  彼が、耿無影の命を狙って失敗したのは、何年前だったか。その時、淑夜を救った羅旋は、人ひとりの命を奪って状況を変える無意味さを、はっきりと告げたはずだ。  無影を殺せば、淑夜個人の恨みは消える。だが、その後にくる〈衛〉国内の混乱について、責任がとれるのかと。  たしかに、今、魚支吾が死んでくれれば、〈征〉軍は退却するしかあるまい。〈征〉軍がここまで攻めこんできたのは、ただ魚支吾ひとりの執念にひきずられてのことだから、継続する気は他の将たちにはないだろう。  だが、有効な手であるかもしれないが、それが真に正しい方法なのか、羅旋はあらためて自問自答してしまう。  暴力という観点からいえば、戦も暗殺も同じなのだろうが、何かが違うと羅旋は信じている。卑怯《ひきょう》とか大義名分《たいぎめいぶん》の有無とかという問題もあるが、一度、暗殺という昏《くら》い情熱にひきずられてしまったら、二度と明るい道を歩めなくなってしまう。人目におびえ、逃げまわるのが、刺客《しかく》というものだ。  羅旋自身が、そんな安易《あんい》な暴力で問題を解決しようとし、とりかえしのつかないことになった経験を持つ。その二の舞を、淑夜にはさせたくなかった。  もしも淑夜がふたたび、あの昏い想いにとりつかれているとしたら、殴ってでもその根性をたたき直さなければならないか——と、盗み見たのだが。  淑夜の顔に、暗い翳《かげ》はなかった。 「殴りたそうな顔ですね、やはり」  ふくみ笑いをした表情も、おどろくほどあっさりと明るい。 「いったはずだぞ。人ひとりを殺しただけで、解決はつかないと——」 「でも、魚支吾ひとりの存在が、この際の最大の問題だとは認めるでしょう」 「それは、そうだが」 「なら、方法はひとつですね。暗殺がだめなら、戦で倒すしかない」 「ふむ」  羅旋の緑色の両眼に、光が点った。 「大軍すべてを相手どろうとするから、たいへんなことになるんです。全軍|挙《あ》げて、魚支吾の首だけを狙えばいい。足まわりの遅い戦車がいくら出てきても、馬ならふり切れるはずです。戦車同士を綱で結んで、本営の周囲に固定するなら、話は別ですが」 「そんな事態を、魚支吾が想定していないことを祈るしかないな、そりゃあ」  声の明るさで、羅旋の乗り気が手にとるようにわかった。 「騎馬兵のみの奇襲をかけてみる価値はあります。念のため、五叟先生に霧か煙幕でも張っていただければ、成功の確率はもっと高くなります。羊将軍か方将軍に、囮《おとり》の役目を引き受けていただくという手もありますが、無用の損害を出すかもしれないのが——」 「それは、ふたりの覚悟次第だ。検討してもらうしかあるまい。五叟に片棒をかつがせるのは、簡単だがな」 「ただの下働きなら、わしはお断りじゃぞ」  と、突然、背後から声がかかったが、羅旋も淑夜も驚かなかった。 「さっきから、立ち聞きしていたな、五叟」  羅旋が歯をむき出すように笑うと、 「こんなところで、大声で密談している方が悪いわい。しかも、わしにただ働きをさせようという話ではないか。老い先短い老人に、晴れ舞台を用意しようという気はないのか、おまえらは」 「なにをいいやがる。これからまだ、百年は生きる気のくせに。どうしても派手に目立ちたいなら、月芽に乗って、先陣を切ってもらってもいいが」 「あんな根性の悪い馬、ご免こうむる。だが、滅びるにしろ生き残るにしろ、早いこと〈琅〉の先行きを決めてやらねば、巨鹿関で大牙が立ち往生するな」 「滅びるとはなんだ。縁起の悪い——」  とは、羅旋も淑夜もいわない。  大牙は、巨鹿関で孤立している。糧食の補給にも限界がある状態で、このまま〈琅〉と〈征〉の対峙が続けば、彼らは関で餓死する可能性もある。たしかに彼らは〈琅〉に降伏し、羅旋の配下となったが、〈琅〉と心中する義務はないのだ。今回の巨鹿関攻略で、もっとも危険な役目を引き受けてくれた見返りに、〈琅〉が滅ぶものなら、いっそさっさと滅んで、大牙に行動と選択の自由を与えてやるべきだろう。 「あいつは、あれでけっこう、律義《りちぎ》だからな。早目に〈衛〉に渡りをつけておくことも、考えつかんだろう」 「わしとしては、あの玻理とやらいう娘が、一番心配じゃ。若いみそらで、大牙なんぞに惚《ほ》れたばかりに、異郷の地で果てるのはあまりにもあわれじゃ」  そんなやわな娘ではない、覚悟ははじめから決めているはずだ——というのは、五叟も百も承知だと知っているから、老人の泣き真似にはふたりとも取りあわなかった。  だが、 「徐夫余《じょふよ》と壮棄才《そうきさい》どの、冀小狛《きしょうはく》将軍、見殺しにするには、あまりにも惜しい人材が、今の巨鹿関にはそろっています」 「ふむ、明日明後日《あすあさって》のうちに、この戦、決着をつけてやるか。魚支吾が、戦車の防壁を考えつかないうちにな」  天がほんのり紅《あか》く、染まりはじめていた。東の地平のむこうには、〈征〉軍が在るはずだった。そして——。  期せずして三人は、西方をふりかえった。東よりもさらに濃い紅い空にくっきりと、一本の旗の影がうかびあがり、ゆるやかな風にひるがえっていた。影になって、文字は読めない。  ここに立つ三人にとっても、この旗はそれぞれ意味がちがう。ひとりには背負うべき責任であり、ひとりには身を仮託している場所であり、いまひとりにはいつでも捨てられるしがらみだ。  だが、三人とも、同じ旗を掲げることに満足していた。 「東風だな」  と、羅旋がぽつりとつぶやいた。 「風があっては、霧は維持できぬぞ」 「ただの奇襲なら、物音を察知される度合いが少なくなって、都合がいいんですが」 「明日の天候次第だな」  実は、魚支吾も馬の足を止める手段については、考えていないでもなかった。  長塁の野の大勝にはよろこび、それが漆離伯要《しつりはくよう》の献策であることにも納得したが、 「それで、馬を完全におさえこめるとは思うな。奴らも必死だ。かならず対抗策を練ってくる。窮鼠《きゅうそ》猫を噛むともいう。気を許すな」  経緯を報告する禽不理《きんふり》に、いちいち鷹揚《おうよう》にうなずきながら、それだけははっきりと、声を高くして、魚支吾は告げた。  騎馬兵の突入を防ぐ工夫は、禽不理以下の将軍、謀士たちの仕事で、魚支吾は直接に指示はしない。君主の仕事は、その戦に意味を与え、それから先の展望を将兵に示してみせることだ。 「〈琅〉は、庸関で決戦する覚悟のようだ。ここで勝てば、あとは安邑までほぼ、ひと息。安邑さえ落としてしまえば、〈琅〉は瓦解《がかい》する。〈琅〉を平定すれば、中原の北半分はわが国のものだ。〈衛〉の耿無影がどれほどの力をもっていようと、国力で負ける気づかいはなくなる。佩《はい》がどれほど凡庸《ぼんよう》であろうと、一代、二代、持ちこたえるだけの余裕はあろう。〈衛〉は、耿無影一代かぎりの国だ。とすれば、孤《こ》の孫の時代には——」  禽不理に、語るともなく話しかけて、魚支吾はふと、口をつぐんだ。 「陛下?」 「孤の、孫か。それまで、孤は生きていられるだろうか」 「何をお気の弱いことを、仰せになります。陛下はまだ、五十歳にもなっておられぬ。老いこまれるのは、早うございましょう」 「衷王《ちゅうおう》が没したのは、四六歳の時だった。孤は今年、四七だ」 「あれは、弑《しい》されたのです。寿命とはいえますまい」  声を励まして、禽不理は不吉な影を吹き払おうとしたが、魚支吾の表情は晴れなかった。 「おそれながら、太子殿下の将来をご案じならば、なおのことです。陛下には、いつまでもご壮健でいていただかなくては。長征で、お疲れなのです。ご無理なさらず、早くお休みを」  侍御の者らを呼び、魚支吾を寝所と決めた天幕へ案内させる。天幕といっても、下手な小屋が一軒すっぽり入るほど広く、中には厚い敷物をしきつめ、簡素なものながら広い牀《ねだい》とやわらかな寝具、生活に必要なさまざまな道具はひとそろい用意してある。  さらに、禽不理はあらたに呼びよせられた太医に、 「どうも、お疲れがたまっているようす。すっきり、気持ちが楽になるような薬はないものか。あれば、さしあげるように」  命じた。太医は首をひねって、 「どうも、最近、睡眠が浅いようにお見受けいたします。お疲れなのは、そのせいでしょう。今夜はぐっすりとお眠みになれる薬を、調製いたしましょう。あとは、その結果次第で加減を変えませぬと」 「万能薬がないことは承知しているが、ここはすでに戦場。もう少し、早く治療できないか」 「申しわけありませぬ。ですが、効き目の早い薬は、それだけ劇物に近いということ。おそれおおいことながら、今の陛下のお身体に、強い刺激はなんによらず禁物です」  禽不理も、そこで引き下がらざるを得なかった。  急使が本国から、この本陣にかけこんできたのは、その深夜のことだった。昼夜兼行《ちゅうやけんこう》ということもあるが、戦車でその速さが保てたのは、〈征〉軍が占拠した城市《まち》ごとに兵を割き、車馬を配備して、前線と本国をつなぐ線を確保していたからだ。使者たちは、城市ごとにあるいは馬を替え車を乗り替え、あるいは人が交替しながら、国都・臨城《りんじょう》からここまで、ほぼ五日で走破したのだ。異例の速さというべきだった。五叟がこれを聞いたら、 「わしのせっかくの工夫を、どうしてくれる」  と、怒りだしたことだろう。  ともあれ、急を告げる書簡を持った使者は、深夜、まず、禽不理の天幕に運びこまれ、そこから禽不理にともなわれて、魚支吾の寝所へと案内された。  禽不理も、迷ったのだ。  薬で眠っている魚支吾を、無理に起こすべきなのか。翌朝までの数刻を、待つべきではないか。報告が遅れたという責めは、自分ひとりが負えることだ、と。  結局、即刻報告することにしたのは、中途半端な気持ちでいて、奇襲でもかけられたら対処ができないと判断したからだ。  魚支吾の執念から推して、国内の、ほんの一部よりは、〈琅〉一国を選ぶだろうことは、予想がついた。冷静に判断すれば、無影の行動は単なる挑発で、大勢に影響するようなものではないことは、禽不理にもわかる。それでもなお報告したのは、ここで軍を退いてほしいという願望が、もしかしたらあったのかもしれない。  疲れているのは、魚支吾だけではなかったのだ。 「お目醒めになりました」  太医が、これまた眠そうな目をこすりながら告げるまで、禽不理は天幕の外に立っていた。太医の表情を見て、彼は覚悟の帯をしめなおした。 「何事だ」  夜着のまま、不機嫌をあらわにした魚支吾に対して、使者から直接、書簡をさしださせたのは、それでも多少怖じる気があったのかもしれない。 「これを、読めというのか。今、何刻だ」  灯りは煌々《こうこう》と点《とも》っているが、魚支吾の目はなかなか焦点を結ばない。手元にひきつけて、かえって光が目をさしたか、いらいらと眉を寄せて顔をそむけた。  思うようにならない、その焦燥感も、後になって思えば悪かったのだろう。  ようやく書簡を広げて読みはじめた魚支吾の顔色が、みるみる紅潮するのを、禽不理ははっきりと認めた。 「陛下!」 「耿無影——、あの、下衆《げす》めが」  吐き捨てるような声が、ふいにくぐもり、ぎりぎりという音が天幕の内側を塗りこめた。その音の異様さに、平伏していた使者の男が顔をあげた、その真正面に、魚支吾の長身が倒れかかったのだ。 「陛下、陛下——」  まるで、丸太が倒れるようだった。身体をかばう仕草すらせず、書簡をつかんだままの姿勢で、魚支吾の身体は使者の男を押しつぶし、脇にころがったのだ。  ごとりと、物をころがすようなうつろな音がした。使者の、小動物を踏み殺した時のような悲鳴が、一瞬、遅れてあがった。その時には、魚支吾の顔色はすでに、青黒く変わっていたのだった。 「太医どの、早く!」  禽不理が急かすまでもなく、先ほどの太医が悲鳴を聞いて飛びこんできた。侍御の者たち、警備の親衛兵らがその後からどやどやと踏みこんでくる。  太医の眠気は、いっぺんに吹き飛んだようだった。その場のありさまを見てとるや、遠慮も忘れ、かじりつくように魚支吾の身体をあちらこちらさぐりまわしていたが、 「——なんということ」  悲鳴とも嘆息ともとれる声を、ひと息、発したと思うと、がっくりと頭を垂れた。 「及ばなかったか」 「どうなのだ」  と、あらためて訊く必要はなかった。  その場のだれの目にも、事実はあきらかだったからだ。  かっと目を大きく見開いたまま、〈征〉王として覇を唱えた漢は、声もなくころがり続けていた。  見えない夢をにらみつけるように、魚支吾の両眼はそのまま、ずっと虚空にむかって見開きつづけ、どうしても閉じようとしなかった。 [#改ページ]    あとがき  ご無沙汰《ぶさた》いたしております。皆さま、お元気でしょうか。約束不履行の常習となった井上です(笑)。  ラスト・スパートだの、これから間隔を詰めて刊行するだのと、前巻でいろいろと書いたような気がするのですが、結局、この時期です。「来年の夏」という約束だけは、かろうじて守ったかに見えますが、実をいうと、これは相当なサバを読んでの発言。本来は、編集さんからは「五月刊」と言い渡されていたのでした。しかも私は、「四月上旬には耳をそろえて、お渡しできるかと」と、大見得を切っていたのです。  ところが、いざとりかかってみると、筆が鈍いにぶい。結局、最終の原稿をお渡ししたのが、当の五月刊のノベルスが出る、その当日(笑)。本当は七月刊に回った方が、編集さんのためにもイラストの小林さんのためにもよかったのでしょうが、「六月刊にしましょう」と、担当のM嬢が決断してくださいました。  弁解するわけではありませんが、これほどシメキリを超過したのは、初めてのことです。三月初旬に風邪の高熱で一週間、寝込み、その後も激しい咳《せき》から、肋間《ろっかん》神経痛を起こして夜も眠れないありさまだったことを考えても、これは少し異常事態でした。  考えてみれば、昨年一年、ずっと眉間にたてじわを寄せて読むような真面目な仕事ばかりでした。唯一のエンターティメントだった「五王」でさえ、前巻はほとんど漫才の入る余地がなかったし、息が詰まるような思いをしていたことは事実です。さて、三人が集まって、今度こそトリオ漫才復活かと思いきや——。都合で、また分割となってしまい、私はきっとストレスをためきってしまってたのでしょう。  中途で姿を消していた淑夜くんが、原稿上にもどってきてくれた時には、正直、ほっとしました。ただ、今回、妙に皮肉のトゲが鋭くなってしまって、作者は首をひねっています。大牙にはこんな物言いはしなかったし、皮肉な言い方をしたとしても、それはもっぱら自分に向かってのことだったのですが。もっとも、面の皮の厚い羅旋ですから、こんなことではびくともしないでしょうし、淑夜もそれは承知の上のはず。彼も、落ち着くところへ落ち着いて、ようやくタガがはずれたのでしょう。大人になったといってやっていいものかどうかは、読者各位のご判断におまかせいたします。  ともあれ、次の巻では是非、念願のトリオ漫才を。そして、今回「女の子」たちは、なんとか出してやれましたので、次は「女」たちをもっと、書いてやりたいと願っています。空手形にならないよう、精進いたします。  最後に、ほんとうにお仕事お忙しいところを、六月刊に間に合わせてくださいました小林さんに感謝を、大幅な原稿の遅れのお詫びを、担当のM嬢に、特に申し上げます。  七巻目は——というお約束は、今回は敢えていたしません。ただ、前回よりは間隔は詰められると思います。この終わり方じゃ、そうでもしなきゃ、読者さんに申しわけないことは十分自覚している作者です。  では、あと二巻。よろしくお付き合いくださいませ。  多謝、そして再見。  一九九七年五月 [#地付き]井上祐美子 拝 [#改ページ] 底本 中央公論社 C★NOVELS Fantasia  五王戦国志《ごおうせんごくし》 6 ——風旗篇《ふうきへん》  著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》  1997年6月25日  初版発行  発行者——笠松 巌  発行所——中央公論社 [#地付き]2008年8月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・当邏 ・当鑼 ・百花谷関《ひゃくかこくかん》→ 前巻までは・百花谷関《ひゃっかこくかん》 ・段麒《だんき》→ 前巻までは・段驥《だんき》 置き換え文字 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26 躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 莱《※》 ※[#「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6]「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6 |※《しん》 ※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88